県花、市花に

簪にしよ紅馬酔木白馬酔木

馬酔木の花が盛りである。

花いっぱいの房が垂れてるさまはまさに「花かんざし」の風情。
これを「鈴」と言ったり、「簪」にたとえたりするのは類想だけど、やっぱりそういう風に詠んでみたくなってしまう。
白もいいけど、先染めの紅もいい。
鹿が遠ざけるため奈良市内には目立つ花で、個人的には奈良の県花、市花としてもいいくらいではないだろうか。実際の県花、市花は「奈良の八重桜」だけど。

誤字

ドライヴの視野の齣なる花馬酔木

ある句会に投句したものだが、披講となって肝をつぶした。

誤字というミスを犯したのだ。誤字は文法的誤りとともにその段階で失格も同然。仮に、直ちに誤字とされなくても全く別の意味になってしまうようでは句意を正しく伝えることはできない。
「馬酔木」というのはそれだけでは季語にならないで、「花」あるいは「咲く」を伴ってはじめて春の季語とされる。
その花というのはスズランのような花が房なりになるのだが、「風に揺れる」「鈴の鳴るよう」「(花の)白さ」だの、「花馬酔木」そのものを詠うとどうしても類想的な句に陥りやすく大変難しい季語だと思う。だからこそ「花馬酔木そのもの」の状態を詠わないに苦悶しながら、ようやく掲句となったのだが肝心な部分「齣」が「駒」になっていた。

車を運転していて視野の隅にとらえた一瞬の花馬酔木。自分としてはうまく言い得ているようで満足もしていたのだが、誤字は痛かった。

大伯の見た馬酔木

車窓過ぐ目に捕らへたり花馬酔木

どこだったか、車のハンドルを握っていて赤い花が房のように垂れ下がる馬酔木が見えた。

馬酔木といえば大和に縁の深い植物で、昔から各地で自生しているといわれる。歌、つまり万葉歌にも十首詠まれており、なかでも大伯皇女の「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」は哀切極まりない。
ちなみにその十首のうち馬酔木の花を歌わなかったのはこの大伯の歌だけらしく、昔から馬酔木とその花は切り離せない関係であるようだ。大津が処刑されたのは秋10月で、その直後に大伯が都に戻っているので、「咲く」ではなく「生ふる」とは秋に花芽を付ける馬酔木をその道中で見て詠んだものかもしれない。