踏まれずに

掌のほどなそこだけ野の菫

オオイヌノフグリ、ナズナなど、野の花が今を盛りと咲いている。

うっかりすると踏んでしまうくらいに。
だが一カ所だけ見慣れぬ花を見つけた。近寄ってみるとどうやら菫のようだ。あまり見たことがない色、形をしているが間違いがなく菫である。しかも十センチ四方くらいしか咲いてないのが不思議である。まわりはオオイヌノフグリだらけなのに。
さいわいなことに咲いている場所が野道の肩にあるので、人に踏まれる心配はなさそうである。明日もまた見に行ってみたいと思うくらい可憐である。

こと寄せる

文豪のこころ寄せたる菫かな
コンクリート隙に菫のど根性

歩道の隅に菫が咲いていた。

ど根性大根ならぬど根性菫である。
漱石に名高い、

菫程な小さき人に生まれたし

とは、小さくとも野辺に力強く咲く健気なすみれへの憧憬を詠んだものとされる。
ただ、この解釈にはどこかかっこつけすぎのような気がしないでもない。小説家というものはおりおり嘘をつくものであるし、わざと自分を小さな弱い人間に見せかけようとする作意を感じるからだ。
すみれについては、宝塚歌劇団の歌のイメージもあってロマンティックに扱われるものであるが、漱石もまたすみれの可憐さにことよせて自分を飾っているような気がしないでもない。

身の丈

かたすみにあらそひさけて菫かな

どんどん草が萌えるなかにあって、木の下で半日陰となっている場所は遅れている。

だが、そんなところに菫が固まって咲いていることがある。
わざわざ表通りに出て場所争いに明け暮れるより、身の丈を知ってさっさと自分の居場所をみきわめてしっかり地歩を固めようという意志があるように思えてくる。
おのれの本分をわきまえているというか、したたかに生きる道を知っているというのか。
こんな生き方を苦ともせず、自然に生きて來たなら、意外に人生は心豊かになっただろうなと思うこのごろである。