ころころと

集会所表玄関金木犀
集会所裏に知られず木犀花

榛原では金木犀が咲き始めた。

盆地より幾分気温が低いぶん先に咲くのだろう。
昼前から雨が降り始めていたこともあって、咲きはじめとは言え香りは十分にあたりに広がっている。
三々五々集まる人は開口一番この木犀にふれて、今月の句会がスタートした。
今日の句会に向けて何日も苦しんだが、長谷寺に差し掛かり始めてからだんだんと彼岸花の赤が道路脇に広がってゆくのが見えて、ハンドルを握りながらこんな句がころっと頭に浮かんできた。

隠国もいよいよ奥の曼珠沙華
彼岸花車窓に初瀬を過ぐるとき

胸一杯吸う

退院を待ってくれたる金木犀

退院を待っていてくれたかのように金木犀が咲いている。

入院するときには蕾すら見えなかったというのに。
大きく息を吸ってから車に乗り込んだ。

毘沙門天さんの総本山

加持祈祷唱える経や金木犀

朝護孫子寺、信貴山に登った。

普通に登れば自宅から1時間くらい。それを休み休み登ったので1時間半のハイキング。
広大なエリアに宿坊他、堂宇が点在し、それらすべてを巡るのは大変なので本堂を中心にいくつかの仏様に手を合わせてきた。

毘沙門天さんが有名で武将から厚い信仰を受けたことでも知られるが、現世御利益を求めて講を組んでお詣りするなど昔から庶民にも人気の山で、参道の両脇をおびただしい献灯碑がずらっと並ぶ。本堂、千手堂では一族なのか講なのかよく分からぬが20人ほどの集団に対して祈祷が行われていた。

追)霊宝館では国宝「信貴山縁起絵巻」のコピーが常時展示されていて、なかなか興味深いものが。さらに、信玄が信貴山毘沙門天さんに祈願した起請文もあったりして、自らを毘沙門天さんの生まれ変わりと称した謙信に手を合わせたのかと思うと可笑しくなりました。武運長久を黄金五両をそえて祈願したものですが、時価にするといくらなのか定かではありませんが、一族存続に五両ではいかにも少なすぎたのではないか、歴史を知る後生の人間だからそんなことも言えるのではないでしょうか。

佐保川に沿って

町の名は在りし日のまま金木犀

奈良市・近鉄「新大宮」駅近くの年金事務所で亡母の年金整理をしてきました。


事務所が佐保川の畔にあったのでそのまま川に沿って上流に向かって歩いてみました。しばらく歩くと汗ばんできましたがちょうど両岸の桜紅葉が始まったばかりで、葉が散らずにうまい具合に木陰を作ってくれるのが心地よいこと。以前に当地には川辺の桜並木が少ないと書きましたが、ここだけは例外のようです。さらに歩き進めると、きれいに刈り込まれた金木犀の生垣があったり、家持の歌碑があったり、蛍の餌となるカワニナを放流していたり、地域のひとたちに愛されている川だということがよく分かります。

ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引(まよび)き思ほゆるかも・・・大伴家持 万葉集巻六 九九四

奈良女子大を過ぎてなお川沿いを歩いて行くとほどなく転害門が見え、その手前に西包永(かねなが)町に出ます。旧住所名が残されている地域でほんの100メートルほどの筋を南北にはさむ町です。実は、ここは亡母が10歳まで生まれ育った町で、亡くなる前に必ず連れてこようと思った場所なのです。約束を一度も果たせなかったのが悔やまれますが、母が幼少時代を過ごした場所を私もこの目で見届けたかったのです。
通りかかったところ、たまたま母と同年配と思われる婦人が家から出てこられたので声をかけてみました。生まれも育ちもこの西包永町だと言われるので、もしやと思い年齢を尋ねると母より4歳若くやはり母のことは知らないとのことでした。ちなみに「包永」とは鎌倉時代この地域にいた有名な刀鍛冶の名前だと教わりました。