ニョキニョキ

曼珠沙華手入れのわろき畝除き

畔の草が生い茂っていると曼珠沙華は顔を出さない。

草が刈られて日の光がさしてはじめて伸びてくるさだめである。
この時期草を刈ると一週間ほどすると突然ニョキニョキ伸びてくるのが面白い。
そのせいか今年病に伏しておられる田の畔はいっかな曼珠沙華が咲いてこないのは寂しいものである。
一日も早くお元気になられるよう願わずにはいられない。

待ってました

看脚下きのふなかりし曼珠沙華

草刈りした途端顔を出してきた。

雨で二日ぶりに畑へ出たら畔に一本の彼岸花を見つけた。一昨日はまったく顔を見せていなかったのに早いものである。菜園をシェアしているメンバー間で気がついたものが交替で草刈している畔なので、誰かが苅ってくれたのだろう。
彼岸花というのは草刈をじっと待つ花のようである。草ボウボウでは芽を出さないが、苅った途端待ってましたとばかり噴き出してくるのは面白い。

焼ける

曼珠沙華橋なき川を灯したる

大和川は灯がともるように彼岸花が散っている。

川沿いの堤防を遡ればどこまでもどこまでも燃えるような赤。
川をはさむ田園地帯の黄金色と対比して、それは鮮やかである。
気になることは、稔り田が今までみたことないような、ところどころ焼けるというのだろうか、枯れたようなところが目立つ。
長雨、それに続く高温の日々が影響しているのではないかと心配になるほどだ。

アプリなら

抜道の知る人ぞ知る曼珠沙華

彼岸花とはよく名づけたものだ。

いつも楽しみにしている大和川堤防の曼珠沙華がこの秋彼岸の時期にいっせいに開いて、堤防の道の内に外に楽しませてくれる。ここは、地元の人以外はあまり走らないルートで、この抜け道とも言えるような狭い道は普通のナビではまず採用しない道路である。もっとも最近は妙に精巧なアプリがあって、その恩恵にあずかる人もあろうが。
この彼岸花は、昔は墓地などに咲いて死人花といわれ忌み嫌われることが多かったというが、いつ頃からだろうか、いまでは田を守る花として、モデルとして人気の花である。
あと一週間あるいはもっと楽しめるだろう。

ころころと

集会所表玄関金木犀
集会所裏に知られず木犀花

榛原では金木犀が咲き始めた。

盆地より幾分気温が低いぶん先に咲くのだろう。
昼前から雨が降り始めていたこともあって、咲きはじめとは言え香りは十分にあたりに広がっている。
三々五々集まる人は開口一番この木犀にふれて、今月の句会がスタートした。
今日の句会に向けて何日も苦しんだが、長谷寺に差し掛かり始めてからだんだんと彼岸花の赤が道路脇に広がってゆくのが見えて、ハンドルを握りながらこんな句がころっと頭に浮かんできた。

隠国もいよいよ奥の曼珠沙華
彼岸花車窓に初瀬を過ぐるとき

刈り入れ近い

曼珠沙華真神原の畦にかな

真神原(まかみがはら)とは飛鳥寺を中心としたエリアをさす。

「真神」とは狼を神格化したもので、WIKIをそのまま転記すると、
『真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来より聖獣として崇拝された。大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)と記され、少なくとも(大和国風土記の逸文と合わせ)8世紀からみられる。
人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。』

刈り入れが近い飛鳥の畦には曼珠沙華が咲き乱れている。
入鹿の首塚に手向けるようでもあるし、入鹿の血潮であるようにも見えてくる。

知られざる見どころ

国原は初瀬や當麻の曼珠沙華

今日は榛原の定例句会。

桜井市の初瀬街道は左右に目移りするほどの曼珠沙華。隠国の棚田はさぞかしといよいよ期待が高まったが、案に反してほとんど見られない。
この棚田の曼珠沙華というのは、段々があることによって畦に沿って斜面ができるのがミソで、とくに棚田を下から見上げるときが一段ときれいにみえるのである。
飛鳥の稲淵のような棚田というほどのことはないにしろ、二上山、あるいは葛城山から盆地中央にかけてはなだらかな斜面が続くので、當麻のあたりも曼珠沙華の知られざる名所、あるいは見どころだと思う。
盆地の稲刈りは遅いので、田はまだ完全な黄金色ではないので、黄緑のなかに赤く帯をしめたような景色のコントラストは何とも言えない風情がある。