軽便線

麦秋やあれに見ゆるが下ツ道
軽便線いまは県道麦の秋

盆地を北西から南東へ、王寺から桜井にかけて軽便鉄道が敷かれていた。大和鉄道と呼ばれるものだ。奈良県にはこのほかにも何本かあったが、残っているのは生駒山ケーブル、近鉄吉野線だけであとは廃線となっている。
大和鉄道はいま県道14号線として我が町から桜井、飛鳥へはもっとも短いルートとしてよく利用している。もとは電車軌道で基本的には直線だったからいくつもの国道を斜めに横切って渋滞も少なく走りやすいのである。
その横切る国道の一つにかつての下ツ道がある。というか桜井市あたりで合流していると言った方がいいか。その合流点は戒重と言い大津皇子の住まいがあった場所である。
私にとってはそれだけではるか昔のヒーローを思いおこすお気に入りのルートなのである。
中ツ道と下ツ道の間は今ではほとんど稲作だが、それでも往時の麦畑がまだ見ることができる。その麦畑の向こうに大神神社の大鳥居が見えるがそのあたりを下ツ道が走っていたのである。
参考)奈良の軽便鉄道

茶褐色に

三輪山につづく国ン中麦の秋
麦秋やここに大和の原風景

もうすぐだ。

盆地を西から東へ、県道14号線の今頃を走ると胸が高鳴る。

桜井市の麦畑

今ではあまり見られなくなった奈良盆地の麦畑がまだ残されているところがあるからだ。
県道から西は麦畑で、その突き当たりの三輪山まで、日に日に茶褐色に染まってゆく景色が広がるのだ。
かつて、大和国ン中の今頃は一面麦秋の季節を迎えて、大阪から峠越えするときなどはそれはそれは素晴らしい眺めだったという。

車から降りて手に取ってみると、それは小麦のようだ。穂に触ればつんつんした角があり、それは思ったより固いものだった。
国ン中周辺部には、今でも「早苗饗(さなぶり)」の風習があり、半夏生のときなどでも餅米と小麦粉でできた「早苗饗餅」を饗するところもある。
そう言えば、今麦畑が広がっているのは桜井市で、三輪素麺の本家本元の地にあたっており、小麦と三輪とは素麺の縁でも結ばれてるのかも知れない。