憎たらしい

鉢木の寸暇惜しみて黄落す

目をかけているはずなのだが。

鉢植えの柿が一足早く色づいて、しかもばらばら落葉してしまった。
落葉樹の生理からして、これ以上葉を養えないからと早々に今年は店仕舞と言うことだろう。
いっぽう、庭植えのほうはと言えば枝葉ばかり茂らせて実のほうはさっぱりという具合だが、強剪定のため枝葉は隆々としていてまだまだ黄葉する気配はない。実が生らない分、枝葉たちはのうのうと我が世の春(?)を謳歌しているにちがいないのだ。憎たらしいのでこの冬は思い切り枝抜きしてやろうと思う。もちろん、来年ちゃんと実をつけることを期待して。

デジャブ

黄落の真っ只中の絵描かな
黄落を浴びて写生に耽りたる
銀杏散るままに画帳の余白かな
銀杏散る画帳をのぞき見るごとく

画帳に銀杏が散ってとまった。

画家はそれにも気づかず夢中で筆を走らせている
この景色を前にも見たことがある。
しかも同じ場所。
鷺池のほとり、浮見堂前。
さらに折りよく、黄落の下通りかかった人力車のガイドの声も。
デジャブの世界。

力車停め車夫に聴きゐるひざ毛布

命つくした光

黄落や連絡先のひとつ減り
黄落の高さ喪ひ御神木
黄落の半ばは濠の底めざし
黄落の風を乱する人力車

今年は銀杏黄葉がことのほかきれいだ。

ふんわりと散り敷く境内など、地から空から光りがわいてくるようだ。
晩秋から初冬にかけての侘びしさを伴う季語だが、光りは意外に明るく悲観的な印象はないのだが。

紅葉はピーク

黄落や一世風靡の大団地

街はいま何処へ行っても素晴らしい紅葉に包まれている。

周囲の山を仰げば雑木紅葉、役所や公園など公的なスペースはこれ以上ないというくらい見事に彩られて、通るたびに歓声をあげてしまう。まして、紅葉を町の木とする地元には楓、紅葉の類いが多く植えられているので、町役場や図書館、体育館が集中している大和川沿いは真っ赤っか。対岸から見ると、錦模様が信貴山にむけて燃え広がるようだ。
とくに見事だったのは、隣町の大きな団地の紅葉で、おそらくここは県下でも最も古い建築だと思われ、街路樹はもちろん、棟の周りの紅葉も4階建てのアパートの屋上に届かんばかりに大きく成長している。
付近のスーパーが次々撤退し、残った商店もまばらで人影もあまり見られないだけに、際だった紅蓮の紅葉がひときわ目に沁むのだった。

たそがれ

黄昏れて街は黄落待つばかり
黄落の路はひたすら一直線

銀杏は思った以上に長い時間をかけて染まっていくものらしい。

立川の昭和記念公園は素晴らしい黃葉のようだ。今日明日はたくさんの人が押しかけるだろう。
当地でもう一月以上観察しているが、黄落どころか完璧な黃葉でさえまだのようである。
この分でいくと今年は来週あたりからであろうか。
「黄落」は「銀杏落葉」の傍題であることからしても、同じ黃葉する欅、櫟を従えてのダントツの代表である。

黄昏の域に達した身に黄落を重ね見る日々。

三重塔夕照

黄落や暮れてなほ地のほの浮かび
黄落や昏るるにしばし間のありて
黄落や昏るるにいまだ迷ひをり

夕日が法輪寺の三重塔を照らしている。

法輪寺黄落

山門脇の銀杏の葉が斜光を透かして明るいものがあれば、影を作っているものもあり、そのコントラストが際だった時間帯だと言える。
また、山門の屋根をよく見ると丸瓦に寺の文字が刻んであったりして、なかなか凝った意匠である。小春の、むしろ暖かいほどの半日を散策に費やしていると、帰るべき時間はとっくに過ぎているのであった。

まちまちに

黄落や高度成長知る身にも

信貴山麓の町の紅葉は美しい。

その麓をぐるりと取り巻くように、高度成長期の頃完成したであろう住宅地が大和川を見下ろすように段をなしていて、街路樹も立派な楓の類だのが大きく成長している。どういうわけか、街路樹の黄葉の進み具合は一律でなくて、まだ青いものがあったり、はたまた黄色ではなく真っ赤になったものもあったりで、舗道の下を這っている根の状態によってこのような差があるのだと思われる。