竹林を騒がす風の寒さかな
竹林の中で鳩が鳴いている。
自宅から500メートルほど行った斜面に社があった。薬隆寺八幡神社という寺か神社か分からない名前だが、室町時代に創建された本殿が重文となっていた。祭神は第15代応神天皇とか。えらく由緒ありそうな神社が斜面の上の竹林に守られるように鎮座されている。
そこから東に500メートルほど行くと平隆寺という推古朝601年創建といわれる平群氏の氏寺が、八幡神社と我が家を結べば三角形をなす位置関係にあった。この平隆寺というのは、いつもの散歩道からちょいと逸れたところにあって今まで見過ごしていたのだが、今日は近鉄生駒線に沿って回り道していたとき偶然発見したのだった。その平隆寺の瓦を焼いたとされる登り窯跡「辻ノ垣内瓦窯」というのが我が家のすぐ近くで発掘され、近所の公園の一角に移設されているのを知ったのも3日ほど前である。
現住まい一体が平群一族ゆかりの地であったことを再認識した日であった。
立派なお社が建っているのに驚きました。
日常の生活範囲内にこのような由緒ある歴史的な仏閣があるのもやはり古都、奈良なればこそですね。
そう言えば正倉院展でも平群地方の古文書などが展示されていましたものね。
お寺の瓦を焼く独自の窯を持っていたと言うのもすごいことです。
ひょっとしてほだかさん宅の敷地内にもお宝が眠っていたりしてね・・・
この登り窯跡がある関係で環境保全地域に指定されているようです。建築確認申請には一月ほど余分に時間がかかりました。待ってても別に何にも出土したわけではありませんけどね(笑)
周りの人達はその経緯を知らないで住んでいるのかもしれませんね。
勿体無いですね。
とは言ってみたものの、時代の順番も分からない私です。。
平群(へぐり)氏というのは土着系の豪族で、25代武烈天皇まで権力を持っていたんですね。ところが、海石榴市(つばいち)の歌垣で物部の影媛をめぐって平群鮪(へぐりのしび)と争い破れた武烈(当時は皇太子)が腹いせに平群一族を滅ぼしたという話が残っています。500年ころのお話。
聖徳太子はその100年くらいあとになります。
このあたりは当時難波へ行く通り道「竜田道」として栄えていたようです。
古代の歴史というのは調べれば調べるほど謎が多くて想像をかき立てられますね。
引用サイト見せてもらいました。立派なお社ですね。ご近所至るところに歴史がつまっており散策に事欠きませんね。羨ましいです。
三郷町、「みさと」かと思ってたら「さんごう」なんですね。意外に思いました。
埼玉の三郷市、今は安曇野市になった元長野県三郷村とも読みは「みさと」なんですが、かつて三者は姉妹都市だったそうです。今はどうなんでしょうね。
いやいやすばらしい歴史の勉強になりますね。
応神天皇やら飛鳥時代の遺物、聖徳太子ゆかりの地等、よい環境に恵まれていて羨ましいですね。こんな環境だと散歩に飽きないし、毎日何かしらの発見ができそうで楽しくなりますね。今回はいつもの散歩コースから少し逸れたところで”お宝発見”といったところですね。
一般的に、意外に地元の人は単に地域にある古い神社として風景の一部として認識し、それ以上関心がなく見過ごされていたりするものですね。
小生の地域にも”子ノ神神社”という小さな神社がありますが、由緒書をみると結構古い神社で、相模一宮の寒川神社と繋がりがあるなど、関心をもってみると身近な所に歴史はあるものですね。
県内至る所がこういう状態なんでしょうね。当地は大和の西の外れ、黄泉の国の方角ですが、その難波へ通じる場所でもあるという立地を反映した歴史を感じます。