健在

春陰のなほもて深き下葉かな

コントラストが深い。

この季節は新緑と深緑の落差が大きいのが魅力で、どちらかというと人は新緑、若葉のほうに目が向きがちだ。
しかし、今日のようなどんよりとして今にも雨が来そうな一日ともなると、その深い緑があやなす陰影こそきわだって美しく見えることがある。
たとえば、半日陰がいいとされる紫陽花も芽吹きはとうに終えて新しい葉を展開中だが、それが大きな樹の蔭にあると深緑の存在として訴えてくるものがある。
西洋化によって日本文化の「陰翳」という美意識が失われつつあるのを嘆いたのは谷崎であるが、自然にはまだまだ健在の美しさが残されおり、それをまたしばらく眺めて至福の時間が流れることを再認識した日である。

季節先行

行春の昼八つしばしウェブの句座

何をやるにも最適の季節。

その昼間のゴールデンタイムの二時間ほどをZOOMの句会で過ごす。
家にいながらにして即座に各地のメンバーが一堂(一画面?)に会せるのは大きな魅力。それぞれが時間を工夫しての参加であるが、用事があったり体調が悪かったりしても個人の意思で参加は強制しないからゆるい句会とも言える。
幹事をしていると会議の管理・進行もあって抜けるわけにはいかないので今のところ皆勤だが、もしかに備えて代行役をお願いすることも頭に置かなければと思いつついまだ実現していない。
次回は五月初旬。すでに頭の中は季節を先回りして夏に切り替わろうとしている。

樹形

降りさうな風の来てゐる若楓

おざなりの鉢の楓の若葉がまぶしい。

住宅メーカーにもらった苗から育てて十年ほど。地植えのものの種が芽生えたので鉢で育てたものだ。親の樹はあまり背が高くならぬよう毎年切り下げてきたが、それでもいつの間にか見上げるほどの高さに成長してきて、素人なりに悪くない樹形である。
両者とも今は滴るような若葉がしっかりひろげてきて、少しの風にもゆれて目を和ませてくれる。
午後に雨となって、またいちだんと瑞々しさが加わったようだ。

初夏

紫に波打つなぞへ芝桜

初夏の花がいっせいにつぼみを弾きはじめた。

躑躅の下の斜面には一面の芝桜。
十年ほとんど手入れもせずに少しずつテリトリーを増やしてきた。当初は何種類かを植えたのがしまいには一種類に絞られてしまった。この薄紫の株が一番環境に適していたようだ。
桐といい、藤といい、初夏には紫の花が似合う。

情報交換

燕の軒の具合の品定め

複数の燕がしきりに鳴き交わしている。

子ツバメにしたらまだ時期が早いようだし。
営巣地としてこの辺りが相応しいかどうか情報交換してるかのようである。
前にも書いたが、近辺でここ数年は巣をかけるのを見てない。したがって、このブロックで巣立った連中ではないことは確かだし、まだ旅の途上なのかもしれない。
しばらくかわしていたあと、やがて二手に分かれて飛び去って行ってしまった。

品種改良

夏蜜柑ときに妥協の甘さかな

最近の柑橘類は甘い。

とくに感じるのが、八朔、夏蜜柑の類いである。
両者とも酸っぱさからは免れなかったのが特徴で、子供の頃はあまり好きではなくそれが大人になっても手を出しそびれる要因にもなっていた。
ところが、ここ何年か知人の手になる八朔、夏蜜柑をいただいて、それまでの固定観念ががらりと打ち破られたのである。
上品な酸っぱさは残したままでいて、甘くてうまさがあり食べやすい。
とくに夏蜜柑などはただ酸っぱさが舌を刺激していたのが嘘のように、まるまる一個をぺろりといただけるほどうまい。これは、きっと海外のオレンジや国内のさまざまな甘い柑橘に負けまいと、関係者が長年品種改良に取り組んできた成果ではないかと思うのだがどうだろうか。夏蜜柑は酸っぱいものだと突っ張ってばかりいては生き残れないと、自ら折れたのかもしれない。
午後のデザートに、ソフトボールほどの大きさの夏蜜柑を一個ずついただく毎日である。

夏日

好試合雨に断たれて春惜む

昨夜は激しい雨音に二度目が覚めた。

窓の二重サッシを通しても聞き取れるほどだから相当の雨である。
折しも昨夜の甲子園球場では、見応えのある投手戦が延長に入ろうかというとき、同じように雷をともなった激しい降雨で引き分けとなったばかりである。
予報でも昨日は局地的な雷雨の警告があったのだが、当地には深夜に及んでやってきたということだろう。
雷雨が明けて今日は黄砂の到来。一時的には二上山も隠れるほどの視程だった。まだまだ明日もやってくるらしいので、夏日の日中でも窓を開けられない日は続く。