電線の禽に名を問ふ冬の空
空が騒がしい。
見れば家の前と向かいの電線に100羽以上の見慣れない鳥が群れている。
鶫に似ているがそれよりは小さく、椋鳥のようでいて脚や嘴が黄色くない。いったい何だろうか。
家に戻って双眼鏡を持ち出したがよく分からない。似た鳥を検索してみるがどうもうまくヒットしない。
判然としないまましばらく眺めていたが、やがて一二羽が飛びたつと群がいっせいにどこかへ去ってしまった。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
電線の禽に名を問ふ冬の空
空が騒がしい。
見れば家の前と向かいの電線に100羽以上の見慣れない鳥が群れている。
鶫に似ているがそれよりは小さく、椋鳥のようでいて脚や嘴が黄色くない。いったい何だろうか。
家に戻って双眼鏡を持ち出したがよく分からない。似た鳥を検索してみるがどうもうまくヒットしない。
判然としないまましばらく眺めていたが、やがて一二羽が飛びたつと群がいっせいにどこかへ去ってしまった。
学童の去にし校庭鶫来る
近づけば視線を背後に置く。
鶫の特性だ。
人間とは一定の距離を保つかのように、近づけばその分遠ざかる。
人が近づけば背中を見せながら、視線だけはこちらに注いでいるようである。
言ってみれば、鶫と人とが「だるまさん転んだ」をしている図である。違うのは追っかけられる方が後方をにらんでいて、追いかける側が近づけばその距離の分だけ逃げるという具合である。
どこかで出遭ったら一度お試しあれ。
秋の季語とは言え、この辺りではいつもなら年があらたまってから、場合によっては冬から春になろうかという頃にみかけることが多いのだが、今年はこんな早くに遭遇するとは思わなかった。北の方で異常がおきているのかな。
隠れ里しのばせ雑木紅葉山
この二、三日背後の山が見事な変貌ぶりである。
信貴の山からなだらかに尾根が里につづくが、普段は何の変哲もない雑木の尾根である。これが秋が深まり冬に入る頃には全山がみごとに黄葉し、さまざまな種類の木がそれぞれの色を競うように全体を染め上げあたかも全山が覚醒したかの様となる。
家を出て少し行くと全体が見渡せるコーナーに出るとそれが眼前にばあーっと広がるのである。信貴の天辺から尾根の末端は小学校まで、180度のパノラマである。
尾根の途中には木立に囲まれて麓からは見えないが古くから信貴畑という集落があり、ここは土地の地蔵講の人たちによって毎年勧請縄が掛け替えられてハイキングコースの目玉地でもある。
尾根の中腹にはこれも裾からはうかがい知れない大きな溜池があって古くから平群の田をうるおしている。
見かけは何の特徴もない尾根であるが、隠れ里的な集落を護る尾根でもある。
初霜の消えて甘藍光りけり
目が覚めると霜だという。
寝室から向かいの駐車場をみると、車のボンネットやルーフにうっすら白いものが降りているのが見えた。
今年の初霜である。
あれだけ暑い秋の日々が続いたのに、ときが至れば来るものは来る。あえぎあえぎ呼吸しているが地球はまだリズムを失っていないのに救われる。
霜が降りるくらいだから高気圧は真上にあり、天気はいい。散歩には十分な陽気につられて午前中も歩いたが、午後も出かけたくなった。ただ、この二十年ほど脊柱管狭窄症による間欠性跛行に悩まされている私は、わずか五分の歩行でも両足が先まで痺れるような痛みがあり、休み休みでないと長くは歩けない。そこで午後の散歩はあきらめ久しぶりに自転車で出かけることにした。ドロップハンドルのバリバリのロードバイクだ。
当地に越して道路事情など思わしくないことなどを言い訳にすっかり遠ざかっている。身長も縮んでいるようだし、サドルを1センチほど下げるがそれでも恐いほどの前傾姿勢である。しかも家の前は坂道である。
思い切って漕ぎ出すと最初はふらふらするが、次第に視線を遠くにやれるようになっていくらか安定してきた。こうして腰への負担は緩和されたが、使う筋肉はどうやら違うようで太股の裏やふくらはぎが張るようだ。
健康のための運動がかえって害にならないよう、安定した走りになるまでしばらく続けないといけないようである。
泥皮の一枚下の葱美人
泥付の葱やうやうとひつさげて
今日から寒くなると聞いてはいたが、昼間は意外に穏やかに過ごしやすかった。
散歩ついでに畑に寄ったがそうなると何かしたくなるもので、家にもまだ在庫があるはずの葱を抜いてみた。いま穫れるものと言えば葉物、それに大根か葱くらいのもの。ふたりきりの暮らしだからたいした量もはけないので余るばかり。ともすると同じメニューばかりの日が続くが、これが意外に苦にならないのは味に癖がないうえに家人の工夫のなせる業かもしれない。
今日も抜きたての葱をぶら下げながら帰途についた。
燃料の目盛減るなる小六月
暖かいのは今日までと言う。
風は強くてバイクは要注意だが、寒くはなくてどこまでも走れるような気がする。燃料計の針を見るとそろそろ補給すべきレベルまで来ているが、もうしばらくこのままで行こうと思った。
荷台に積んだ蕪とネギの束がぱたぱた揺れるのをバックミラーが映している。
長電話飽きたるころの笹子かな
冬に入って初めて笹鳴きを聞いた。
実は今年は同じ場所で秋の九月にも聞いているのだ。
老鶯がまだまだ元気なじぶんに笹鳴きとは、それまで聞いたことがないので驚くばかりだった。
さすがに11月も後半に入ると鶯の歌は聞こえないが、入れ替わりに笹鳴の季節となる。この極端な鳴き方の変化は驚くしかないが、彼らにはそれなりの何か意味があるにちがいない。
冬日を受けた野などに笹鳴きを聞けば冬だなあという気分がいやが応にも高まってくる。これが天気がよくて陽だまりにいようものならもう春は近いとさえ思うものだが、さすがにこの季節は小六月の気分を楽しむに十分なBGMと言えるかもしれない。