危険察知

単線のレール歪める出水かな

夕刊トップに痛ましいカラー写真が掲載された。

JR久大線というから久留米から大分を結ぶ線であろう。
西は筑後川、東は大分川に沿って湯布院を結ぶ山間の路線である。
写真は九重町筑後川支流にかかる鉄橋が流されて陸上部分に歪んだまま残されたレールの大写しである。
鉄橋が簡単に流されて鉄のレールが雨のようにひん曲げられるのだから、その前には人間一人の命はひとたまりもない。
治水事業が追いつかず、夏、秋、毎年のように繰り返されると、衰えていく国力に国の負担は増すばかりである。
政が追いつかないのであれば、民の力で防災に努める他はないのであるが、それとて限られていて危険を察知する目を養いさっさと避難するしかないというのが実情であろう。

居座る

荒梅雨や畔をあふれて崩れざる

自然にはほどほどという願いは届かない。

すさまじい濁流の映像をみると身がすくみそうになるが、現地の方々はどれほど心細いことだろうか。
朝には南九州のニュースに釘付けだったが、午後になると西九州が長時間豪雨に見舞われている。
いわゆる梅雨後半の出水が各所に起きているわけであるが、なかには湖と見紛うような田園地帯が映されて、声が出ないほどである。
冠水には至らずとも田の排水が間に合わず、畔をつぎつぎ越えるのなども雨量のすさまじさが分かる。時間当たり50ミリを超えるような豪雨なんだろう。
前線はしばらく居座るというから、どこの地域が次のターゲットになるともしれない。温暖化異変とはいったいどこまでいきつくのか。

匂い

紫蘇摘んできし玄関の香の満てる

一本あれば十分まかなえる。

薬味としてこの時期紫蘇は貴重な戦力である。
ただ、種が飛んであちこちに芽がでるので適当に間引きするのだが、それでも間に合わないほど増えてしまう。
自然のままにしておくと混み合って虫がついたり、病気になったりするので今日は思い切りトリミング。
大量の葉っぱが部屋に運ばれると、香りが家中にぱっと広がって、外から帰ってきた途端玄関で香ばしい紫蘇の香りに包まれる。
韮は毎週のように収穫できるし、今年はやたら匂いの強いものが家に入ってくる。

がりがりと

どんぶりの背越分けあふ漁師宿

昨夜はいろいろあって投句忘れしました。

昨日の句会に出したものです。
「背越」。いきな名です。
鯵や鮎など、骨付きを薄く削いで膾などでいただく。
熊野出身の両親のもとで毎日のように鯵や秋刀魚の素朴なものばかり食べていました。
鰭をとって、腸をぬいて、鯵などはぜいごもとって皮剥いで、なかなか面倒な食べ物ですが、食べてみて骨の舌触り、歯触りを楽しむ料理です。ときには、ぜいごが一片残っていて舌を刺すようなことがあったり。
酢でいくらか柔らかになったとはいえ、やはり骨です、これも歯の健康があったればこそ、がりがりと安心して食べられます。

消え方

捩り花刈られし芝にうながされ

年々あちこちに飛んでいる。

花が終わればいつの間にかほかの草に紛れて消えてしまうが、宿根草だけに根だけはしっかり残っているようで、次の年になるとしっかり顔をだしてくれていつものように人の気を引くのである。
終わった花をよく見ると、大きな種なのか種袋なのかしっかりつけていてこれが弾ければ他にもつぎつぎ飛ぶのであろう。
駐車場の雑草を始末するのに捩花も抜いてしまうにはしのびず、曇り模様のなかを移植することにした。
単独で植えてみたのは、花期が終わったあとどんな風に消えてゆくのか確かめたいこともある。さて。

間をおく

ぎっちょんのちょんの休止符昼涼し

この二三日キリギリスと思われる声が響く。

「響く」がよく似合うほど大きい声である。
二三匹いるようで、相手をうかがうのか我関せずなのか知らないが、それぞれ「ぎぃーっ、、、ちょん」ときっちりと休止符を打つのが面白い。
7月そうそう早くも虫が鳴き出した。その一号なのかもしれない。いわば初虫ということか。

田植え終えたか

半夏生咲いて尼寺の門の閑か

今日が半夏生。

夏至から数えて11日目、もしくはそのあと5日間を言う。
この半夏生までにはすべて田植を終えるのが目安とされてきた。
いまの盆地はこの雑節がしっかり守られていて、ようやく植田が広がる季節となった。
歳時記に取り上げられるのはこの雑節でのことである。

一方、半夏生は植物の名でもある。
葉の半分が白化するので半化粧からきた命名のようである。
当県では規模において御杖村のものが有名であるが、案外知られていない名所が奈良市内の「興福院(こんぶいん)」。一条通からちょっと入ったところにある尼寺である。
事前に予約必要と言うことで人はあまり見ないが、季節には門前の池がこの半夏生で満たされる。
閑静なところに、ごく自然に見える手入れのされた池と半夏生。
いつまでも見ていて飽きない。