耳遠き人におらぶる刈田道
御年卒寿、くらいと思われる。
暑い夏も毎日のように鍬を振るっておられる。
歳にしては高い方に属する御大はいたって健康体であられる。ただ難は耳が少々遠いこと。
コロナ全盛の頃は大声で話しかけることははばかられたが、いまでは近くまで寄って雑談もしたりできるようになった。
今日は昔からのお馴染みさんとおぼしき人が遠くから声をかける。が、本人には届かない。
そこで、杖を頼らなければ足許が怪しいところを畔沿いに近づいてようやく気づいてもらったようである。
旧交をあたためることしばらく。掘りたてのサツモイモの幾ばくかを土産にお戻りになった。
コロナなどもあって近所でもなかなか出会えない日が続くが、こうして長いおつきあいの仲の会話など聞いているとほんわかとした気分が漂っていいものである。
加齢による難聴は誰にも起きる。
私の母も耳が遠くテレビは最高音で見聞きしていた。
その頃は思いやりに欠け余りのボリュームに即小さくして聞こえないじゃないと不満を漏らされた。
自分自身が10年ほど前に突発性難聴を患い片耳が聞こえなくなりボリュームを上げるようになった。
わが身になってはじめてわかることがある。
所で我が家系は長寿であるが母の末妹である私の叔母は現在91歳、介護のお世話にもならず数年前に癌を克服し、毎日散歩を欠かさず独り暮らしを楽しんでいる。
先日などカラオケはもちろん、ボーリングに行ったと話すから驚いた。
年の若い友人はガターだったが自分は一本倒したと自慢していた。
もちろん難聴もなく耳の聞こえは私よりも良いくらい。
この調子でいつまでも長生きしてほしいものである。
そして自分もこのような人生にあやかりたいものである。
先日
大病も、故障もない長命は周りの人も幸せにできるものですね。
一病ならぬ多病持ちの私ですが、耳も最近右の方が聞こえが悪いことが分かりました。偶然発見したのですが、左耳を寄せれば聞こえるのに逆になると覚束ない。耳は認知症の前触れと言いますから、あんまり気持ちいいものではありません。
耳遠き人におらぶる刈田道
好いですねぇ。
“昔からのお馴染みさんとおぼしき人が遠くから声をかける。が、本人には届かない。”
ほのぼのした風景が目に浮かびます。
広がる空の下で大声で掛け合う翁に媼、少々の大声でも誰も気にしない刈田道での挨拶。
ちまちました都会の生活様式が貧しく思えます。
「おらぶ」という言葉に首を傾げないひとはやはり西の人。おそらく関東では使わないでしょうね。「大声で呼らぶ」という意味ですが、大声がまったく気にならない田圃、畑というオープンエアはおのずと気分もゆったりできていいものです。