至る処

朱印所の縁にくつろぐ秋日和
朱印所は庫裡の縁なる秋日和

不退寺の朱印所は寺務所兼の庫裡の縁側である。
縁に座れば庭の草苑に様々な秋の句材が見えてくる。
集めた句材を句にしようとひとしきり縁で思考を巡らすが、ただ心地よい秋日に誘われてリラックスするばかり。
だが、意外に句友との会話の中にヒントをいただくこともあるので、雑談もおろそかにはできないものだ。
現に、昨日はそのような雑談や仕草のなかから佳句がいくつか生まれたようだった。
見逃さず句に仕立てたのはさすがの手練れで、学ぶことの多い一日であった。

“至る処” への2件の返信

  1. 吟行や句会で席題を考える時など周りの人と雑談をしていると気が散って俳句になりません。時間が勿体ないのでつい一人になりたいなと思ってしまう。これじゃダメですね。雑談の中からヒントをもらい一人になって句に仕立てる、、、そういうことなんでしょうね。でも難しい。

    1. 主宰は吟行に同行した句友といえども、実際に作句にふける場合は孤独でなくてはいけないと言ってみます。
      たしかに、主宰の思索中には人を寄せ付けない雰囲気があるのは確かです。そこまでストイックになれない凡人の句材を前にした雑談というのは、話題が他にあるのではなく句材に関わった部類でしょうか。そういう中からヒントを受けることは多いです。
      ただ、座会での雑談だったら、仰るように気が散るに違いありません。話題が俳句以外のことに及んでいますからね。

      境内で帽子にあの盗人萩をつけている句友がいたので教えてあげたのですが、そのときのやりとりを見ていた第三の句友がいたらしくこんな風に読みました。

      草じらみ何処でつきしか帽子まで

      草じらみをつけるのは普通靴とか袖、裾ですよね。それが、どうしたことか珍しくも帽子にまでついている。いったい何処でついたんでしょう。
      やりとりした本人たちはこれをものにすることができず、横から見ていた人がこれを写し取った。どうですか、このシンプルにして類句でもなく、季題「草じらみ」が生き生きしてきますよね。
      主宰いわく、「俳句は類句、類想の文学。季題の連想とは誰しもが抱く感じを生かすことを意味するが、その誰しも抱くと言うところを逆手にとって、こういう風に言い得たというところを目指さねばならない。ほんの一握りの砂を足すくらいのものだが、そこがむつかしい」。
      雑談と俳句からは遠ざかりましたが、この句から大切なことを学びました。
      まず季題ありき。その季題のもつ類想、イメージに新たな側面を呼び覚まさせるように。
      おたがいがんばりましょう。

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