見ようと思う者にしか見えない

天空のわたの原なる鰯雲

鰯雲かうろこ雲か。

その区別について今まであんまり考えたことがなかったが、やはり俳句をやるようになって気になり始めた。と言うのも、歳時記には鰯雲があっても鱗雲がないのだ。
しかし、雲をよく観察してみると、実は同じ雲の形なんだが、見立てによって呼び方が違ってるのに過ぎないことが昨夜寝床のなかで気づいたのだ。

雲片を一匹の鰯とみなしてその群れている様子が鰯雲。
逆に、雲片を鱗とみれば雲全体が一匹の魚に見えるうろこ雲。

分かってみれば単純なことだが、今さら気づくというのは今まで物事をいかに散漫に見てきたかと言うことだ。俳句がちっともうまくならない理由の一つがこれだったのにちがいない。
ちょっとでも上達したければ、人の倍あるいはそれ以上の努力で物事に向かい合うこと。そして気づくこと。これに尽きるのではないか。

その気づいたこと、驚いたことを言葉で言い得れば詩が生まれる。
何事もそうだろうが、散漫からは新しく得られるものはない。逆に、見ようとして対すれば新たな面が見える可能性があるということだ。

“見ようと思う者にしか見えない” への2件の返信

  1. 何の疑問も抱かず鰯雲=鱗雲と思っていました。
    言われてみてその違いはなんだろうと気になり歳時記を調べてみました。
    なるほどね、見立ての違いですか。
    鰯雲の下に「鱗雲、鯖雲」と小さく細字でありました。
    解説には秋によく見る鰯雲は卷積雲のことで小さな雲片の集まり。
    この広がりは小さいことが多いが一端が水平線まで延びていることも空一面に広がっていることもある。さざなみに似たもの、魚の鱗のように見えるもの、鯖の斑紋のようなものもある。

    悲しいかな、気づくどころか疑問にさえ思わぬ大雑把人間です。
    気象予報士はどんな説明をしてくれるでしょうね。
    よく観察すること、「気づき」って大事だと気付かされました。
    子どもは「なぜ?」と疑問を呈する分、詩人たるゆえんかもしれませんね。

    1. まさに子供は詩人ですね。
      常識に毒され、思い込み激しく、融通も利かない頭、、、、
      まみれた垢の薄膜を一枚でも剥がしていきましょう。

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