日々是好日

鰯雲焼けて西方浄土かな
鰯雲潮目をなして乱れけり

今日は外へ出た途端鰯雲に心奪われた。

複雑に乱れながらも一方向へ確実に流れているさまは、まるで目まぐるしい潮目に翻弄されながらも群としての意志を持ったかのようにうねりつつ広がりを見せてくれる。
帰るとなって顔を上げれば、西の空に残った鰯雲が真っ赤に焼けて西方浄土もかくやと思われる荘厳さ。
今日は鰯雲の二度にわたって珍しい態様、変化(へんげ)に遭遇する、秋の好日を賜った。
日々是好日とは禅の考えでは「命あるものにとって明日という日が来るとは限らない この一瞬一瞬を大切にせよ」という教えだそうです。
その日を好日とするために、自ら能動的に佳き日にするよう心がけるのが肝要と。

恨み言

大和川遡るがごとく鰯雲

秋らしい空となった。

午後から晴れてきて気温は30度をこえてきたが、空気は秋のもの。
上を仰ぐまもなく見事な鰯雲が西の方から広がっている。盆地のほとんどを覆い尽くすような美しい雲である。
暑さを忘れてみとれること数分。
こんなに爽やかな空気に包まれるのはほんとうに久しぶりで、暑さへの恨み言もすっかり影を潜めた一日となった。

いまだに夏か

ゆきあひの雲のひとつに鰯雲

羊雲というのだろうか。

朝からぷくぷくとした雲がいくつも湧いて東へ流れている。鰯雲と同じくこの種の雲が空にあるときは天気が下り坂にあると言うことだが、すでに台風の予感をはらむような空である。
それにしても今日は暑かった。夏に戻ったような感すらある蒸し暑さで、夕方にはとうとう冷房を入れてしまった。

剝落隠しようなく

バス降りて一ㇳ日の旅の鰯雲
瓶口に牧のミルクの爽やかや
変哲のなきコスモスの寺なりし
コスモスの花の名借りて露の寺

今日のまほろば吟行はコスモス寺の般若寺へ。

平城京の鬼門を守る寺で、例の重衡の南都焼き打ちにあったことでも知られ、鎌倉時代の再建を経て今日に至るが、さしもの古刹もいくばくかの剝落は隠しようがないようである。
それを補うべくと言うことであろうが、境内にコスモスを育てて参拝客を呼ぼうということだが、寺のあちこちのほころびに心なしかあはれを催す。
気分転換は寺の裏、というか寧楽坂の街中にある小さな牧場を見学して味の濃い牛乳をいただいたこと。

行雲

鰯雲群れて大和になだれくる
鰯雲今日も流れる大和川

盆地にいると、鰯雲は流れるものだということがよく分かる。

それも決まって西から、つまり大阪から流れてくるのだ。
一面のようにくるときがあれば、ときには一本の川のように、そしてまた扇形に広がるように、いろいろな形で楽しませてくれる。
ルートとしては、大和川に沿って流れてくることが多いようだ。
一週間ほど前に目撃したのは、川の流れのようなものが伊賀の方へ流れていた。
昨日今日は全面真っ青な秋の空。そろそろ天気下り坂となる明日あたりゆったりとした鰯雲が見られるかも。

扇形した雲

難波より大和入りせるかな鰯雲

どうやら鰯雲というのは西から東へ広がるものらしい。

というのは、鰯雲は大和川下流のほうから盆地の空に向かって末広がりになることが多いからだ。
たまには、盆地全体を鱗雲が覆うこともあるが、たいていは生駒山地と金剛山地の間の川筋をつたって広がってくる。
鱗雲は典型的な秋の雲だから高度が高いはずなのだが、盆地への入り口でも一番低い部分を選ぶというのは不思議なものだ。きっと関ヶ原のような隘路みたいなもので、そこだけ空気が早く流れるようになって、雲が吹き込んでくるのではないか。
その結果、まるで河口から逆に広がってくる扇状地のような形となって、見事な扇形となるのだ。
同じように西から扇形に広がってくるものに、飛行機雲、筋雲などもある。

盆地からみて大和川は西方へ流れる黄泉の国への入り口でありと同時に、そこから仏教はじめ様々なものが流入・伝来した、世界への窓でもあるわけで、西から広がる川や雲、空に対して大和の人々は特別の思いがあったのではなかろうか。

見ようと思う者にしか見えない

天空のわたの原なる鰯雲

鰯雲かうろこ雲か。

その区別について今まであんまり考えたことがなかったが、やはり俳句をやるようになって気になり始めた。と言うのも、歳時記には鰯雲があっても鱗雲がないのだ。
しかし、雲をよく観察してみると、実は同じ雲の形なんだが、見立てによって呼び方が違ってるのに過ぎないことが昨夜寝床のなかで気づいたのだ。

雲片を一匹の鰯とみなしてその群れている様子が鰯雲。
逆に、雲片を鱗とみれば雲全体が一匹の魚に見えるうろこ雲。

分かってみれば単純なことだが、今さら気づくというのは今まで物事をいかに散漫に見てきたかと言うことだ。俳句がちっともうまくならない理由の一つがこれだったのにちがいない。
ちょっとでも上達したければ、人の倍あるいはそれ以上の努力で物事に向かい合うこと。そして気づくこと。これに尽きるのではないか。

その気づいたこと、驚いたことを言葉で言い得れば詩が生まれる。
何事もそうだろうが、散漫からは新しく得られるものはない。逆に、見ようとして対すれば新たな面が見える可能性があるということだ。