泥の家

戸を汚し巣をかけそめし燕かな

もしかしたら久しぶりにお向かいに燕の巣がかかるかもしれない。

戸の上の一羽と、電線の一羽が賑やかに声を交わしているのだ。
しかも戸口の上をよく見ると、泥らしきものがついていて、巣作りが始まったばかりのようである。
気にくわなければ放置してしまうかもしれないが、しばらくは見守っていたい。
あとはカラスのお節介がないことを望む。

弥栄に

改元の首都弥栄の若緑

お車をヘリからの中継でみられる時代の幸せ。

昔なら、不敬罪として厳しく罰せられたろうに。
国事行為としての各行事もテレビで、インターネットで生中継される時代。
放映では皇居から赤坂へのお車が、眩しいばかりの新緑のトンネルを縫うように進む。首都圏はまさにゴールデンウィークに相応しい晴の陽気となって、新天皇の御世を祝福しているようだ。
新元号だからと言って、べつだん何も変わるわけでもないけれど、昭和、平成、令和へと三代生きられる幸せに思いをはせたい。

紙一重を

引率はママより若い磯遊

昨日の月例句会の席題は「磯遊」。

先月もそうだったが、眼鏡をかけてないので白板に書かれた文字が見えない。
披講となってやっと知ることとなるが、作るとなると易しそうで意外に手強い兼題である。
というのも、たいていは磯遊びの内容になってしまって下手すれば季語の説明、そうでなくても類句のやまを築くばかりなのだ。
伝統俳句派、写生派となるとなかなかこの壁を超えられないのではないだろうか。ある意味説明句と紙一重のところを狙ってみせるのが真骨頂となるのだが。

死を身近に

朝掘の筍提げし男はも

句友の訃報が信じられない。

やあ、と言いながら農耕で日焼けした顔が句座につく。高取町の祭りの重役を務め、カラオケ仲間には毎月新作を披露。
今頃は筍、秋ならば里芋やサツマイモを句友に分けるため車に積んでくる。
そんな彼も、1年半ほど前から厄介な肺炎にかかり何度か入退院を繰り返していたが、ふだんの元気な姿が頭にあるのでみんなは句会に戻ってくるのを信じて疑わなかったのである。
それだけに突然の報に一同のショックの度合いは大きい。
句座の平均年齢が高いこともあって、別れはいつでもあるものだということを現実に突きつけられ茫然とするのみである。

エアポケット

行く春をひとり都心に惜しみけり

それは意外だった。

都会の新緑というものがこんなに新鮮に感じるなんて。
毎日緑に囲まれて暮らしていると、自然の移ろいなど当たり前のことだとみなしがちである。
だが、都心に一歩踏み込んでみると当然ながらコンクリートが圧倒的に空間を占めていて、そのわずかな隙間にいっせいに緑を吹いているコントラストの魅力というものがあるのだ。これが夏の盛りならばこれほどの驚きというのは感じないと思うのだが、やはり新緑のもつ旺盛な生命力の力であろう。
難波橋を降りた中之島公園の芝生には、近隣の高層マンションからやってきたと思われる若い家族が三々五々休日をのんびりと楽しんでいる。ゴールデンウィークの都心に生まれたエアポケットのような空間である。
公園のバラ園はいくつか開花するものもあったが、株の大半は蕾はまだこれからというところ。10連休が明ける頃はまた別の様相を呈していることだろう。

若葉の山をバックに

つばくらめ生駒山を高く飛ぶ日和

昨日とは一転しての低温。

高かった湿度も今日はからっとして、季節はひと月もどった感じだ。
そのせいかどうか、今日の燕はやたらに高いところを飛び交う。
若葉でまぶしいほどかがやく生駒山をバックに一羽、また一羽。
しかし、気のせいかいくぶん燕は少ないようにも思うがこの先増えるのかな。
いよいよ春は深まってゆく。

色気

腰曲がるをみな育くむ牡丹かな

相当なお歳をめしている。

その方が育てる牡丹が道路からもよく見えて、今が見頃である。
一株ごとに色の違うものがあって、どれも見飽きないほどいい色をしている。なかでも、白にやや薄桃がかったのが見事で見飽きない。まさに牡丹の妖艶な魅力をあたりに漂わせているのだが、お歳をめしたお人とのギャップがおかしくもあり、をみなの心のうちをのぞきみたような複雑な気持ちにもなったのである。