重複

惜春の没の句稿を捨てにけり

とにかく外へは最小限の用事でしか出かけないので、ひたすら身辺の些末を詠むしかない毎日である。

今日の句であるが、私にとって句帖というのは主に吟行のときに用いるだけなのでここ数ヶ月ページがなかなか進まない。
思いついた句をメモするのはもっぱらスマホのメモアプリで、出句の何倍とある膨大な捨て句が記録されているのだ。
過去の結社投句もすべてスマホにデータ化されていて、たまにはメモデータを整理しないと後から読み返したり検索したりするには邪魔ものでしかない。
なかには、俳句の形をなしていないが種になりうるものがあるのでなかなか踏ん切りがつかないのであるが、ここでもモノ同様もしやもしやで増えるしかないものをバサッと捨てることにした。
こうして整理して気がついたことがある。5月号で採用された句を6月号にも重複投句していたのだ。編集長に言ってもし採られていれば下げてもらうしかない。

エアポケット

行く春をひとり都心に惜しみけり

それは意外だった。

都会の新緑というものがこんなに新鮮に感じるなんて。
毎日緑に囲まれて暮らしていると、自然の移ろいなど当たり前のことだとみなしがちである。
だが、都心に一歩踏み込んでみると当然ながらコンクリートが圧倒的に空間を占めていて、そのわずかな隙間にいっせいに緑を吹いているコントラストの魅力というものがあるのだ。これが夏の盛りならばこれほどの驚きというのは感じないと思うのだが、やはり新緑のもつ旺盛な生命力の力であろう。
難波橋を降りた中之島公園の芝生には、近隣の高層マンションからやってきたと思われる若い家族が三々五々休日をのんびりと楽しんでいる。ゴールデンウィークの都心に生まれたエアポケットのような空間である。
公園のバラ園はいくつか開花するものもあったが、株の大半は蕾はまだこれからというところ。10連休が明ける頃はまた別の様相を呈していることだろう。

古典人気

聴講の万葉集に春惜む

雨催いのなか飛鳥へ。

今日は万葉文化館研究員による「万葉集を読む」講座聴講が目的である。

引っ越して8年たつのにこのような講座があることを知ったのは、先日の飛鳥一人吟行のときである。
毎月第三水曜日午後に開かれてきて、今年で10年近くになるという。これは聞かずにおられない。さっそく年度1回目の現地にかけつけたわけである。
今年度は巻五864番歌から906番歌まで。一回当たり数歌という非常にゆっくりとしたペースで進むので、このペースで行くと生きている間にとても最後まで行き着かないのであるが、体と頭が大丈夫なうちは出席しようと決めた。
行ってみて驚いたことに、改元効果というのか万葉集への関心が高まったようで、いつもの倍くらい集まったということだ。
奇しくも、「令和」の典拠となった「巻五 梅花の歌三十二首の序」の部分は今年1月に終わったばかりで、今日はその梅花の宴を文によって知った吉田宜(きつたのよろし)が旅人に宛てた書簡の回であった。
平日だからほとんどがシニア。あらためてシニアの古典人気の高さを垣間見ることとなった。

近場

春惜しむ雨となりたる小江戸かな

予想を裏切って思ったより静かな雨である。

こんな日なら古い町並みのそぞろ歩きが似合いそうである。
黒い瓦に湿りが加わってさらにしっとり感がまして、漆喰の壁、連子格子などがぴったりくる。
小江戸への小旅行。近場の日帰り旅として最適ではなかろうか。

夏近し

馴染みなき土地に住み馴れ春惜む

奈良暮らしが始まって3年と半年。

冬の寒さは厳しいが、そのぶん春を満喫できるものも多く、飛鳥をはじめちょっと足を伸ばせば古代の息吹にふれることもできる。花よ蝶よと浮かれていたら、あたりはもうすっかり夏模様。この春のあれこれを頭に思い出しながら,夏に向けての心準備もする毎日だ。