自分を重ねる

息子たち巣立ちひとりの田植かな

大雨が去った今日は徐々に天気も回復してきた。

周りの田は大方田植えも済んでいるというのに、誰も手伝う人がいないのだろうか、老人ひとりが泥田のなかで重い田植機と格闘していた。
息子や娘たちが都会に出て、田を守るのは今はもう老夫婦だけの毎日なんだろう。

この姿は自分にも重なって見え、今も妙に残像がちらつく。

“自分を重ねる” への4件の返信

  1. 過疎地はいずこも同様で我が田舎もご多分に漏れずです。
    何だか腰を折り曲げて農作業に励むお年寄りを見ると哀れを誘うのは失礼でしょうか?
    ご本人はそうでもないのかも知れませんが。

    田植えの時期って各地で相当の差があるようで驚いています。
    今まで気にも留めなかったことが、句をかじるようになってから、又このブログに接するようになってから気がかりになっています。
    これはとても喜ばしいことかもね。

    私、ほだかさんの一日一句の題材をお借りしてなるべく一日一句、詠むことにしているんです。

    1. 時期が来れば時期相応の仕事が待っており、体が自然に暦通りに動くようになっている。。。長年生活の一部ともなった作業には悲壮感というものはありませんが、それでも歳とともにきつい肉体労働というのは堪えますよね。

      一句一句詠む癖をつけてください。つねに題材探ししているうちから、日頃見落としているものが見えることもあって、いい句に仕上げたいと思うときがあります。

  2. 田植えなんて一家・一族に近所の人も手伝って総出でやるべきものでしょうにねぇ。
    この辺考えると思考が停止してしまうんで考えないことにしてます。ずるいんでしょうが。
    でも子供たちが出て行って自立してるんであれば、まあそれも良しでしょう。。

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