二杯目の椀をつきだすうなぎ飯
うなぎがなくてもたれだけでうまい飯が食える。
それがお気に入りのうなぎ屋。
相伝のたれで長男以外は引き継げない。したがって支店も出さないという頑固なうなぎ屋である。
土用の丑の日は休業で、うなぎを地元の海に放流して供養するというのも今の世の中で変わっている。
コロナ以来出かけてないし、本当に久しぶりのうなぎかば焼きとたれのセットが届いた。
ふだんはまずご飯をお替りしない家人もこの日ばかりは二杯目に挑戦。残ったたった一切れの尻尾でも、残ったたれを茶碗にたらせば軽くいっぱいはいける。下品と笑わば笑えである。旨さには勝てない。
亡き母が施設でお世話になっていた頃の事、食欲がない日でもうなぎのタレだけでご飯が進んだと職員さんから聞いたことがある。
美味しいタレはそれだけでもいけるのでしょうね。
子供の頃から馴染んだ味だからなおさらなんですよ。
かつては店の周囲にもうもうと煙がたって、それは凄まじく食欲をそそられたものですが、今では環境対策のためか以前の煙は見えません。
二杯目の椀をつきだすうなぎ飯
なんでもない表現に見えて、匂いと味までが迫ってくる見事な一句。
こんなのが詠めれば、月末の悩みなんか吹っ飛んでしまいますね。
今日はお彼岸の中日。
紀伊半島めがけて台風が来なければ、今頃は三重の鰻屋で堪能しているはずだった。お彼岸さんで墓参の予定もむなしく順延となりました。今夜はなぜかお隣さんから頂戴した赤飯とのこと。聞けば、墓前に供える予定のおはぎがお隣さんへ行き、代わりに赤飯が届いたようです。