盛るということ

ブレーカー落ちて湯浴の夏の闇

昔の家ではよくブレーカーが落ちたものである。

今は十分に計算されたアンペア契約をしているので、少しくらい電力に負荷をかけたくらいでは落ちることはまずない。
実際のところを言うと、浴室の電球が切れてやや暗い入浴となっただけのことである。二個付いているランプの片方が切れただけだし、特殊な球とあって買置きもなく片肺飛行だからそのまま詠んでも句にはなるまい。
日常のことを句に詠もうとすれば、
球切れて風呂の野趣帯ぶ夏の闇
くらいと、何ともつまらない。
そこで、何とか句として形にならないかと工夫して句を盛るのである。これで、今夜のことでなく遠い昔の追憶の句ともなったのである。前句は、
ブレーカー落ちて野趣帯ぶ夏の闇
「野趣帯ぶ」と言った時点で句に間がなくなって、面白くない。そこでさらに手を加えることにした。
俳人はよく嘘をつく由縁である。
私小説と言いながらそのままでは小説にならないので、脚色を加える作家と同じである。

“盛るということ” への2件の返信

  1. 作家や俳人になったつもりで創作を楽しんでください。

    いまはほとんどがLEDで電気が切れることは滅多にありません。
    昔のことを思えば家の中は明るすぎるくらいでしょう。

    そういえば子供のころの我が家ではお風呂が別棟にあったので電気が引いてなくてカンテラと称するもので明かりをとっていた。
    これも今思えば風情というよりは野趣帯ぶですね。

    1. この電球も新築以来ですから11年もったことになります。昔の白熱電球でもなく、かといって蛍光灯でもない、LEDでもないけど省電力だそうです。特殊な電球なのでさっそくamazonで取り寄せることにしました。
      昔は、蝋燭というのも補助的な灯りでしたね。停電と蝋燭、まだ昭和の20年代のころはセットでした。
      前句はしゃべりすぎなのでさらに手を加えました。

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