那智石を選りゐて女の浜に灼け
那智石を選るがほまちの浜灼けて
灼石を熊野女のひた拾ふ
石拾ふ熊野女の灼けにけり
那智石の七里御浜の灼けに灼け
熊野の七里御浜は、熊野・木本から紀宝町に続く砂利浜である。
弓なりに弧を描く浜は大変美しく、日本の渚百選、日本の白砂青松百選、21世紀に残したい日本の自然百選の一つに選ばれているのもうべなるかなである。
果ての紀宝町・井田地区は赤ウミガメの産卵上陸地としても有名だ。
この浜の美しさははるかに続く松林もさることながら、浜全体が石の浜であることにも依っている。石ははるか熊野川上流から運ばれてきた石が新宮から海に出て、角がすっかり丸くなるほど太平洋の荒波にもまれて打ち返された果てにたどり着いたものである。
中には硯などでも有名な那智黒石も混じっていて、大ぶりなものは庭の撒石に、これのやや扁平になった丸石は高級な碁石の材料として採集する業者がいた。実際に石を拾うのは浜の女たちで、わずかなカネを目当てに、夏でも深い帽子をかぶり手甲その他で全身を熱さから守るようにして日がな一日浜に出たものだ。
悪ガキどももあわよくば小遣いになるかもと浜に出てみるが、夏の暑さにはひとたまりもないうえに、拾ってきた石が選別所ではほとんどが不合格なのではとても続けることはできない。ただ「拾う」と言うより「選る」仕事だと言った方がいいかもしれない。親孝行な女の子のなかには黙々と手伝う子がいたが、目利きできるようになるまでにはガキ大将たちの辛抱がついてゆけないのである。
おそらく、今ではこのような過酷な条件で浜に出る女もいまいが、七里御浜というと石を拾う女たちが点々と渚に沿って並んでいる遠い景色を今でも思い浮かべることができる。
近年は上流にダムができたおかげでだんだん石が運ばれなくなり、浜が痩せていくばかりだと聞いている。あのきれいな浜にテトラポットが立ち並ぶ光景だけは決して見たくないと思うのだが果たしてどうだろうか。
七里御浜はその風光明媚もさることながら熊野古道伊勢路コースとして熊野速玉大社 への浜街道になっていますね。
黙々と歩き続けてようやく辿り着いた人にとってこの景色は一気に疲れを取ってくれるでしょうね。
私も古道を歩くのが夢でしたがもう体力的には厳しいものがあります。
青岸渡寺の参道を歩いていた時、那智黒石を見つけて可愛いのを数個買ったことがあります。
太平洋の荒波に揉まれた艶やかな石が浜の女の過酷な労働による汗と涙が沁み込んだ産物だとは今まで露ほども知りませんでした。
美しい浜の風景、永遠であって欲しいですね。
今一番行きたいのは何処かと聞かれたら、熊野と答えます。
陸の孤島と言ってもいいようなロケーションですから、行ったことがない人は多いと思います。
でも、一度行くとまた行きたくなる。黒潮が届けてくれる南の遠い響き。黒潮にのって多くのものが東にも流れていきました。古い日本の交差点でもあるこの場所は、日本人の精神風土にとって異界とも言えるかもしれませんが、それがまた魅力であるような気がします。
足腰を鍛錬して自信を取り戻せたらぜひ再チャレンジしてください。
あの扁平な黒石、那智石というんですか。正に熊野灘ですね。あまり馴染がありません。一度時間かけて紀伊半島一周もしてみたいです。
正しくは「那智黒石」。略して「那智黒」「那智石」といいます。艶があって濡れるとさらに輝きを増します。「那智黒」は熊野土産の飴玉の名前の元にもなってますね。
碁の白石の最高級は碁石用蛤の半化石品だそうです。
熊野三社を中心に、海の幸、山ノ湯を楽しみながら、世間とはしばらくかけ離れた旅がしたいですね。
脱世間とはいきませんが、二年ほど前熊野三山を訪ねました。那智大社から入り、大雲取、小雲取越えで熊野本宮大社。そこから新宮へ下り速玉大社へ到りました。雲取りの谷あいの小口自然の家はなかなかの風情のある宿でした。熊野といえば中上健次ですね。新宮の居酒屋の採れたての鯨の尾身で締めをしたんですが、隣の御仁が何と彼のお兄さんだったというのはおかみさんにあとで聞きました。
熊野古道を歩かれたんですね。健脚の君のことだから、大峰奥駆はもちろん小辺路、大辺路、伊勢路すべて踏破も可能ですね。
当方は、永年のクルマ頼みを脱して歩こうと思ったら、腰を悪くしてというシャレにならない始末です。
中上の小説は強烈でしたね。今でも彼の残した文化活動を引き継いだ人々が熊野大学を運営しています。俳句では茨木和生さん、宇多喜代子さんなども彼と関わりがありました。熊野からの発信にも強烈なインパクトがあります。