秋の空はなぜ高い

冷やかに間違ひ電話切られけり

明日朝はさらに冷えるという。

盆地の朝の涼しさは格別だ。秋冷を直に感じることができて、暑い暑いと言ってるうちにすぐに秋は過ぎてしまいそうである。
今見ている気象情報では、秋の雲の位置が高いのだという。つまり天高しとは雲高しのことでもあるのだ。

ところで、週末の台風の行方が気にかかる。
一番台風の影響を受けると思われる日曜日が例会の日に重なるのだ。今まではやだなあと思えばいつでも欠席できたが、幹事となると自分のことはともかく開催の可否も含めて責任を負わなければならないし。
無事に逸れて欲しいと願うばかりである。

全勝

内線に受くる辞令の冷やかに
内線で決まる人生身に入みて

秋独特の季語に「身に入む」、「冷ややか」がある。

それぞれ、通期の日本語としても存在すると思われるが、俳句では秋のものとなっている。
これは「秋のあわれ」といつの間にか結びついたものと考えられるが、平安時代の歌には盛んに「身に入む」が秋と結びつけて詠まれているところから来ているとされる。
いっぽうの「冷ややか」も冷たい視線を言うという意味では通年にあるが、元は秋になって皮膚感覚で「冷たく」思ったり感じたりすることで、初秋の「新涼」に始まり、「秋冷」、そして晩秋の「そぞろ寒」「やや寒」「肌寒」「朝寒」に連なる語である。

掲句は、サラリーマンがなかなか重い辞令を受け取ったときのものを、二つの視線で詠んだものだが、実際には遠く離れていない限り電話一本で辞令を伝えられるわけではないだろう。
ただ、電話で上司の部屋に呼び出されたときというのは心のさざめきもあって、告げられるまでは「どうか悪い内容ではありませんように」と祈りながら向かうのである。
何回か内線電話で「ちょっと来い」と呼ばれたことがあったが、我が戦績は四勝四敗くらいであったろうか。豪栄道のように全勝とはなかなかいかぬものである。

秋風のしみる辞令となりにけり

話変わって。
バリバリの中堅で頑張っているころ、突然労組幹部から電話で呼び出され、組合専従の打診があった。
当時、労使関係はそれまでの蜜月関係に微妙に揺らぎを生じており、難しい局面が予想されることもあってとてもその場で受諾することはできず一旦は保留したのであるが、実はすでに事前に会社側の了解をとっている事項であり実質的に拒否できない、拒否するなら退職を覚悟しなければならなかった。
以後六年間を想像だにしなかった分野で過ごすことになるのだが、これがいろんな意味で以後の人生に大きな影を投げかける結果を生むこととなった。なかんずく、三年間を上部団体に派遣され、組合の文化活動の拠点となる雑誌編集に携わったことで、文芸、芸術関係の一流の先生方の謦咳に触れることができ、たとえばものを書くことも苦ではなくなったのが、このブログにつながっている。

日常から隔離される

冷やかに入院初日整ひて

入院初日というのは大抵は何もすることがない日である。

受付が済むと部屋に割り当てられ、看護師や担当医から明日以降の予定を告げられるのも、すべて予め決められた手順通りに粛々と行われてゆく。
その後と言えば、早い夕食、そして早い消灯、それ以外はなにもすることがない。日常から全く切り離された孤独な時間がやたら長い。

生まれて初めて入院してから2年がたった。