手がかり

たよりなき記憶身に入むテストかな

後期高齢者の免許更新案内がきた。

書状によるとまずは認知機能検査を受けなければならないらしい。
調べてみると、想像はついていたがこれはなかなかの難敵になりそうである。
一枚に四つの絵が描いてあって、これを四枚。合計十六個の絵を覚えるというものである。各一枚をそれぞれ1分間かけて記憶してゆくらしいのだが、この作業が終わると次はまた全然異なる作業をさせられる。要するに、記憶力の保持が一定時間保てるかどうかの試金石になるわけである。
そのあとで、さあ十六個の絵を思い出すだけ答えろというわけである。
若いときならともかく力勝負でくそ暗記もできようが、ついさっきのこともすっかり忘れてしまう齢ともなるとそうはいかない。警視庁サイトで絵が公開されているので、試してみたが一分間空回りするばかりである。
そこで少し焦る気持ちでさらに詳しく読んでみると、ワンセット十六枚の四組には共通するところがあって、それぞれのセットは十六のジャンルから成っていることが分かる。いわゆる「手がかり」となるものである。
イラストを暗記しなくても、この「手がかり(ジャンル)」さえ覚えておけばよさそうである。
『野菜・果物・花・衣類、家電・楽器に家具・道具、鳥に昆虫・動物も、食器・筆記具・乗り物に、体に武器は物騒だ』
七五調で舌に転がして覚えたらよさそうだ。
絵を見せられたとき、それぞれを手がかりに結びつければいいはずである。
検査はひと月先だから何とかなるだろう。

かかりつけ医

身に入むや両の腕の針の跡

いつものかかりつけ医に町の無料健診を受けてきた。

最近なんだか疲れやすく体力が落ちてきたように思うので、まずは癌マーカーの検査も頼んできた。精度がどの程度か分からないが、結果によっては再検査することも頭に入れなければならない。
たまたま今朝のテレビを見ていたら、このコロナ禍で受診者が減るだけでなく、癌検診を受けない人も増えたのでいきなりステージ3の人が見つかるケースが増えているらしい。最低でも年に1回は受けておかないと発見が遅れ治療にも時間がかかる、あるいは手遅れにもなりかねない。
毎月の増血剤注射に加え、採血、そしてインフルエンザのワクチンと注射針の跡三つが両腕に残った。
今年はインフルエンザワクチンの量が少なく、希望者全員に渡らなくなりそうだから予約前に打つように勧められたからである。かかりつけ医をもつことの大切さをあらためて認識した日であった。

年会報

巻頭に寺さん悼み秋の風
秋風や同志また欠け年会報
消息の知れて身に入む年会報

労組専従時代のOB会報が届いた。

専従はつごう六年にのぼり、いま考えても最も濃い日々の連続であった。
そのなかでも、現場を離れた三年間は機関誌編集にたずさわり、いままで触れたことのない世界の人々に接するにつけ毎日が刺激的で新鮮に思えたものだ。
OB会というのは、永年指導いただいた名物編集長を囲む会であったが、先生が亡くなられてから一時途絶えていたのを、メンバーがほとんど職をひいたこともあって復活したものである。
年に一回開かれる会に出席するには、毎回1400字くらいの小文を提出しなければならず、当日は早めに着いてまずはこの会報をじっくり読み、それがまた総会・懇親会の肴になるのである。
欠席のため再開二号が届いたが、巻頭は永年組合、そして参院議員として活躍された故寺崎昭久氏こと通称「寺さん」を悼む追想文である。去年訃報に接したときも驚いたが、こうして再び寺さんの知らない面をうかがうと寂しさがふつふつとわいてくる。
元いた組織は大きな改革もあってとうに無くなっているので、OB会には新入会員もなく先細るだけだが、みんなの近況を読むとまだしばらくは続きそうにも思える。

急報

急ぎとて一行の訃のしむ身かな

まさかの訃が届いた。

激動の時期のある意味同志であり、先輩が今朝亡くなられたとやはり同志から連絡が入った。
いきなりの話で、亡くなられたという事実だけが伝えられたのである。
続報を待たねば詳しいことは分からないが、あの立派な体格の持ち主にしてもやはり病にはということであろうか、そんなことをぼんやり考えている夜である。

全勝

内線に受くる辞令の冷やかに
内線で決まる人生身に入みて

秋独特の季語に「身に入む」、「冷ややか」がある。

それぞれ、通期の日本語としても存在すると思われるが、俳句では秋のものとなっている。
これは「秋のあわれ」といつの間にか結びついたものと考えられるが、平安時代の歌には盛んに「身に入む」が秋と結びつけて詠まれているところから来ているとされる。
いっぽうの「冷ややか」も冷たい視線を言うという意味では通年にあるが、元は秋になって皮膚感覚で「冷たく」思ったり感じたりすることで、初秋の「新涼」に始まり、「秋冷」、そして晩秋の「そぞろ寒」「やや寒」「肌寒」「朝寒」に連なる語である。

掲句は、サラリーマンがなかなか重い辞令を受け取ったときのものを、二つの視線で詠んだものだが、実際には遠く離れていない限り電話一本で辞令を伝えられるわけではないだろう。
ただ、電話で上司の部屋に呼び出されたときというのは心のさざめきもあって、告げられるまでは「どうか悪い内容ではありませんように」と祈りながら向かうのである。
何回か内線電話で「ちょっと来い」と呼ばれたことがあったが、我が戦績は四勝四敗くらいであったろうか。豪栄道のように全勝とはなかなかいかぬものである。

秋風のしみる辞令となりにけり

話変わって。
バリバリの中堅で頑張っているころ、突然労組幹部から電話で呼び出され、組合専従の打診があった。
当時、労使関係はそれまでの蜜月関係に微妙に揺らぎを生じており、難しい局面が予想されることもあってとてもその場で受諾することはできず一旦は保留したのであるが、実はすでに事前に会社側の了解をとっている事項であり実質的に拒否できない、拒否するなら退職を覚悟しなければならなかった。
以後六年間を想像だにしなかった分野で過ごすことになるのだが、これがいろんな意味で以後の人生に大きな影を投げかける結果を生むこととなった。なかんずく、三年間を上部団体に派遣され、組合の文化活動の拠点となる雑誌編集に携わったことで、文芸、芸術関係の一流の先生方の謦咳に触れることができ、たとえばものを書くことも苦ではなくなったのが、このブログにつながっている。

かかりつけ医とのつきあい方

身に入むや病歴の欄不足して

初診のときいつも問診票を書かされる。

そのなかで、酒飲むか、煙草喫むかどうかのチェックと同様に、必ず訊かれるのが「既往歴」だ。
あれこれ書いてるうちにあっというまに欄を埋め尽くしてしまう。
もはやこの身が病気のデパート化しているということであろう。
服用の薬の種類もふくめて、いつも書くたび気が重くなってしまう。

ところが、NHKの「ドクターG」などを観ると、実はこの問診票に対応する患者情報、なかでも普段の生活スタイルなどの聞き取りが重要なカギを握っている例が多いようである。
煩わしいなどと思わずに、ちゃんと診てくれることを期待して、丁寧に書いておいたほうがいいに違いない。

実は、当地に引っ越してきて命を拾ったのではないかと思うことがある。
以前では待ち時間が長くて薬だけをもらってくることが多かったが、当地でたまたま受けた医院は処方だけ出すことはせず毎月きちんと診てくれる。そのなかから異常が見つかって、地域連携の県立病院を紹介され事なきを得たことがあった。
今ふりかえって、あのままあの町に住んでたらと思うとぞっとしてくる。
当地では都会の便利さは失ったが、命を拾うことに比べればその代償は問題にもならない。

がえんぜない

身に入むやいくばくもなき日思へば

今日は一変して食欲が旺盛でご飯を食べたいと言う。

食べたら激痛に苦しむのを分かっていながら「少しならいいか」と用意したが、やはり七転八倒の苦しみをただ見ているしかなくて後悔の念がたつ。
理屈が通じない病人というのは、病気に立ち向かう気構えを求めるのは不可能なので一緒に戦うことすらできないもどかしさと、治療法の選択肢までもが狭められるもどかしさがある。

夕食はなだめすかして諦めさせたものの、果たして今夜はおとなしく寝てくれるかどうか。