当たり前とは

着古しの雨に濡れたる案山子かな

このところ趣向こらして人間的な案山子が数体立っている。

稲刈りを目前に控え二週間ほど目を光らせているようで、その効果か、稔りは順調のようである。
すぐ隣は昨日稲刈りが終わったばかりで、稲架にたわわに成果が架かっている。
案山子田は春は一面は紫の蓮華に包まれ、秋はこうして案山子の風景。隣の稲架といい、今の時代に珍しくも光景が一カ所に凝縮しているのが貴重である。
一段高いところにある小学校校舎からは、彼岸花が姿を消した後も昔ながらの棚田の風景を眺めることができるが、子供たちには大きくなってもそれは最早当たり前ではなかったのだということを知っておいてほしいものである。

豊の秋

見切らるる胸板うすき案山子かな


道路に向けて数体が並んでいる。

お世辞にもうまいとは言えない案山子だ。
しかも、衣装はと言えば廃棄寸前のずた襤褸を身にまとい見ているだに頼りなさげである。
この様子では雀どもにもバカにされそうで効き目の方はいかがなものか。
水が落とされて一週間以上はたつだろうから、この週末あたりが刈り入れかと思ったが、昨日の雨につづいて明日の日曜日も雨の予想だから先に延びそうである。
あたりはどの田も夕日に黄金に輝き、豊の秋である。

家を空ける

パッド入れて案山子の胸のゆたかなる
マネキンのついの生計の案山子かな
マネキンの人をも脅す案山子かな

理容学校のモデル嬢のようなマネキンの髪が短く刈られている。

それが十字の案山子のてっぺんにのっているものだから、夜に見たらぞっとするかもしれない不気味さを帯びている。立てた本人は観光客の目を楽しませようというつもりかもしれないが、何となく気味が悪い。
おりしも稲淵地区では案山子コンクール実施中だが、明日香村のそこかしこで案山子が立っていて、この案山子たちもその一つであった。

今日はおよそ六年ぶりに家を空けるため、予約投稿である。猫どもは家人に任せて。

本流をゆく

手拭を肩に案山子の心意気

トラディショナルな案山子を久しぶりに見た。

竹を十字に組んで、古浴衣を着せ、目鼻はへのへのへ、それを手拭の頬被りで覆ったやつである。
それも二体、相並んで睨みをきかせているつもりのようだ。
近年は、最新ファッションに身を包み、遠くからとか後ろからだと人と見分けがつかないタイプが、本来のフィールドを飛び出して駅前だとか、街中に立っては町おこしに一役買っているものが多い。当初の機能など鼻から期待してないのは明白である。
そんななかで、昔ながらの案山子道本流をゆく潔さを目の当たりにすると思わず声をかけてやりたくなる。
「よっ、大統領!」

右肩上がり

右肩の少し怒れる案山子かな

今日は飛鳥吟行。

飛鳥寺付近、祝戸付近(石舞台あたり)、稲渕付近、橘寺、天武・持統合葬陵。
おかげで句材はいたるところに困るほど。
最近では町おこしと称して見せ物案山子が多いなかで、雷丘を過ぎたあたりで本物の案山子二体を発見。
頬被りして古浴衣着せられ、昔ながらのスタイルである。
ちょっと滑稽だったのは、右肩上がりならぬ、右肩怒り。両裄は一本の竹だから、当然左肩下がりとなる。
伝統的スタイルの案山子が廃れてゆくなか、「右肩上がり」というのが妙におかしくて独り悦に入ったのであるが。

脱線

かな文字が下手と案山子のしかめ面
眉目のよき仕立ておろしの案山子かな
脳みそは詰めてもらへぬ案山子かな

「へのへのもへじ」は案山子の定番。
そしてそれは大概が下手な字で書いてある。
焦点が定まらずやぶにらみ。
孤独で。
雨で墨がにじみ。
風に傾いて。
鳥にも馬鹿にされそうで。
見た目も頼りなく。
実際に効果もなくて。
やがて文字もかすみ。
着たものは襤褸になり。
捨てられる。

そんな哀ればかりではないだろうが。

昨日、今日と、ちょっと句は脱線気味。

山田の中の

今風にファッション決める案山子かな

本格的な案山子というのは昨今お目にかかれない。

あるとすれば、それは村おこしの類いの案山子祭りだったり、単なるディスプレイにすぎなかったりする。
隔世の感があるのは、その姿形で、昔の案山子のイメージというのは童謡にあるような、いわゆる山田にあって一本足で顔は日本手拭いで頬っ被りし、目鼻口はへのへのもへじというのが典型であるのに対し、最近のは動物をかたどったものだったり、人間にしても実にリアルに作ってある。しかも形態が家族やグループであったりで、単にそこに立っているというのではなく、踊りとか何らかの動きが表現されていて服装もそれにあわせたものが着せられているなど実に多彩で、作った人たち自身が楽しみながら工夫を懲らしているのがよく見て取れることである。
なかには、人の着る新品のシャツとか着せてあったりするのにも驚かされる。