トーン

熱帯と化したる宵の秋の蝉

今朝も庭に来て賑やかなトーンを奏でている。

短い時間であったがクマゼミを聞くよりははるかに心地よい。
あとは夕方の蜩を聞きたいものだが。

頭上から

天泣のごとく降るなり秋の蝉

ようやく法師蝉の声を聞いた。

それも自宅の壁にである。
いきなり頭上から降ってくるものだから、最初はどこからか分からなかったが、聞けば聞くほど声は近い。二階の壁の辺りであるが暗くなりかけているのでさだかには見えないが、間違いなくそこにいる。
ところがいったん家の中に入ってみると声が聞こえない。機密性の高い二重ガラスを閉めて一日中エアコンをつけていると気がつかないのだ。たまたま夕方の散水で外に出て気づいたのであるが、ズボラを決め込んでいると聞き逃すところだった。
「天泣」とは晴れているのにどこからか降ってくる雨のこと。かんかん照りの一日がようやく暮れようとしているときに空から降ってくるような法師蝉であった。

かきたてるもの

産土の杜に陣引き秋の蝉

つくつくもかなかなも聞かない夏である。

しかし、アブラゼミやクマゼミは相変わらずだが、ほんの少し変化が起きているのは一週間ほど前まで庭で煩いほど鳴いていた蝉の声が遠のいていることだ。
八幡さんの森にでも引いたか、いくらか静かな朝となって早くから暑さをかきたてることもなくてほっとする。
ここでかなかなでも聞こえれば秋を感じることだろうが、それはいつのことだろうか。

水の音

鳴る川を声渉りゆく秋の蝉
水生れてもの動きそむ秋の蝉
秋の蝉生まれし水の冷たさに

瀬の音に混じって蝉の声が聞こえてくる。

夏の蝉のような、煩わしいまでの姦しさとは異なり、どこか澄みきった清澄な音に聞こえてくる。ある意味、清流に濾過されたとでも言おうか、耳障りな周波数の部分が瀬音に吸収された結果居心地のいい音だけが耳に響いているかのようである。
夏の間聞かれていた河鹿はもう聞かれず、聞こえてくるのは瀬音と蝉の声だけである。
秋は水音に触発されて生まれてくるのだと思った。

薄暮点灯怠らず

痛ましき事故の現場や秋の蝉

もうかなり標高の高いところだが蝉の声がする。

国道169号線というのは奈良市に発して吉野から川上村、北山村の隘路を這うようにして新宮に至る道路だが、川上村から下北山村の境界は台高山地と大峯山地を結ぶ鞍部のようになっていて、複雑なループ型のトンネルなど険しいルートとなっている。
先日そのトンネルの一つで火災事故に発展した事故があり、3人が亡くなったばかりである。
実際に走ってみて思ったのだが、とくに天気がいい日が要注意で、トンネル突入寸前はフロントガラスに日が差して前方が見にくく、内部がよく見えないことが多い。突入後も明るさの落差が激しくて、目が慣れるには数秒の時間が必要だ。
今回の事故もトンネル内がカーブしており、トンネルに突入した車がセンターラインを越え対向車にぶつかったのが原因だと聞いた。
衝突された車もとんだ災難だが、僕の推理ではおそらくヘッドライトを点けていなかった、あるいは出口に近いということで消していたのではないか。もし点灯していれば、いくらトンネル突入直後眩しいとはいえ対向車は気がつくはずだからである。
長いトンネルでも点灯せずに平気で走っているドライバーが結構多いが、トンネルにおけるヘッドライトの役割を十分認識してない、言ってみれば愚かなドライバーとも言える。薄暮になっても無灯火で走る輩もまた同じである。自転車の無灯火も他者からは見えにくいという意味で同罪である。
点灯は早ければ早いほど身を守る。このことを胸に刻んで命を大事にしたいものだ。

蝉の神話

尽き果てて子らの虜や秋の蝉

最近の研究では蝉の命は1週間よりもっと長くて3週間ほどあるそうである。

また。土の中にいる年数も7年とか言われていたが実際は1年で羽化する例も報告されているらしい。
となると、儚いものの例えに上げられていた「蝉」というものの実体が実は間違っていたと言うことになる。
だがやはりここは、「滅びの美学」に弱い日本人にとっては蝉は「儚い」ものであり続けてほしいものなのである。

「空蝉」という言葉がもつ響きにいささかも曇りがあってはならないのである。