入職

制服の板につきもし花は葉に

この春入職したと思われる若者が朝夕通る。

通勤はブレザー、髪は短くあるいは長いのは束ねると決まっているらしく、清潔感が見る目にもここちいい。
住宅地の先には大きな介護付き病院があって、おそらくそこの職員だと思われる。
職員の数も多くて毎年何人もの新人が入職するだろうから、この季節は決まった時刻にフレッシュな顔ぶれが通るのはいいものである。

竜田川

水腹にくちくなるなり花は葉に

気温計は29度。

いっぺんに夏になって、着るものをつぎつぎ脱ぐは、茶を何杯も飲むはでなんとも忙しい。
最近どういうわけか、水分をいっぱいとると夕飯が食えなくなる。いわゆる水腹でそれだけで腹が膨らんでしまうのである。
午後はあちこち用事があって、その途中に竜田川、三室山のそばを通りかかったら桜の名所もすっかり葉桜になっていてすっかり初夏模様である。明日からまた並に戻るというが、あっというまに春が去ったという実感もある。

成長

学校へ兄のあと追ひ花は葉に

腕白もいつの間にか小学校へ上がる齢になっていた。

四つ上の兄は親に面倒見るように言われたものの、いたずらっ子で気が強い弟をもてあまし気味でしぶしぶ通学を先導しているようだ。
ふたりとも学童保育学級で帰宅は5時頃。
やがて学校にも慣れてきたらもう兄の言うことなど聞かなくなるのは目に見えているし、二人だけの時間をどう折り合いをつけていくのか、気にかかるところであるが、お隣の家庭のことであり離れて見ているしかない。
兄弟は時間の経過とともに成長するであろうし、どんな少年に育っていくのか。6年間はあっという間に過ぎてゆくだろう。

平群谷の山には遠目にも桜の名残が認められるが、雨で増水した竜田川沿いの桜はすっかり葉桜となっている。

雑巾にもならない

祝日に国会開き花は葉に

「花は葉に」という季語は比較的新しいそうである。

ホトトギス歳時記にはない。
角川の合本歳時記昭和59年版にもないということだから、平成の季語ということもできるかもしれない。
「葉桜」の傍題として扱われるようだが、「葉桜」は文字通り桜若葉のみずみずしさをいうのに対し、「花は葉に」は誰もが分かるように「うつろい」を詠むものである。
実はとっくに葉桜の季節が来ていて「桜若葉」も色を濃くする季節なのだが、政府のあまりにも緩慢なコロナ対策に業を煮やす思いでこの季語を使ってみた。
このコロナ禍に対するには、連休に入るので政治も休みというわけにはいかない。緊急事態宣言の終了か延期か、医療崩壊をいかに防ぐか、店を閉じなくてはならなかった自営業者、アルバイト口を失った学生やフリーランス、非正規労働の人たち、自己表現の場が失われた文化芸能、アーティストなどの暮らしをどうつなげるのか、新学期になっても学校に通えない児童や生徒たちに授業や指導などにいかに手をさしのべるのか。
小さすぎて雑巾にもならないアベノマスクより、助けてくださいと叫んでる人たちへ、血の通う施策というものを早急に見せてください。お願いします。

ぱっと炎上

再放送ばかり流れて花は葉に

そろそろ檜花粉も終盤。

本来ならマスクも不要になるころだが、今年ばかりはそうはいかない。
もともと花粉用に買っておいたマスクがこれほど貴重になるとは思いもしなかった春である。
在庫も尽きてきそうだけど簡単には手に入らないらしい。
アベノマスクなど論外で、誰がぱっと消えますよと言ったかしらないが、それこそ「冗談はよしこさん」にしてほしい。まったく困ったことだ。

季節先行

御身代わり像瑞々し花は葉に

四年前に御身代わり像が完成していつでもお目にかかれるようになった。

とは言え、安置された開山堂のガラス戸には新緑が映りこみ、顔を近づけなければ中の様子は見えない。
芭蕉翁が「若葉して御目の雫拭はばや」と詠んだ鑑真和上の像は御影堂に安置され、毎年6月の三日間だけしか開扉されない。そこで、「脱活乾漆技法」と呼ばれる当時の技法によって忠実に模造した像を毎日参拝できるようになった。
四季を通じて参拝できるわけだが、翁の句が頭にあるせいか、新緑の時期がいちばん似つかわしく感じてしまう。

例年よりずいぶん早く夏の気配である。目に映るのは初夏のものばかり。俳句は季節を先取りというが、今年は季節のほうが先に行く感が強い。