順延

当てあるがごとき寄り道蕗の薹

蕗の薹の報が入った。

はやくも盆地に春の便りがあって、自分も探しに出かけなければと思う。
去年見つけておいた土筆の宝庫も内緒にしているのだけれど、もしかしたら蕗の薹もそのあたりにあるかもしれないとひそかに期待しているのである。
今日にも探検に出ようと思ったが、雨があって空も何やら怪しく明日以降に順延である。
それにしても今週の天気予報は雨模様が多そうで、今のうちにやっておかなければならないことが片付かない。
冬から春への変わり目、季節の変わり目と言うのは安定しないものであるのを肌で感じるのである。

春の命

湯殿への渡りの脇の蕗の薹

そろそろ蕗の薹、土筆の季節ではないかと思ふ。

桜にはまだ早いが、山辺の道の散策がてら土手に吹いてるのを確かめたい。
昨日今日と何やら用件があって外出できなかったので、今週あたりいってみようと思う。
狙いは崇神天皇稜付近。長岳寺あたりもよさそうだ。
掲句は、飛騨の奥の温泉で雪間からいっぱい顔を出しているのを発見したときの驚きを思いだしたものである。
土筆はともかく蕗の薹というのはなかなか見つけられない。あればすぐ人が採ってしまうかもしれないし、もしあったとしても明らかに私有地にあるものには手を出せないし。持ち帰ったという記憶はないが、そんなときは店先のもので我慢といこうじゃないか。やっぱり天麩羅がうまい。
そういえば、春の命をいただく季節がやってきた。山菜のシーズンには少し早いが、楽しみにとっておくことにするか。

弱日

蕗の薹探す視線のたもとほり

蕗の薹を見つけたというローカルニュースがあった。

今日はいつものコースを逸れて田んぼの畔にまで進出。もちろん蕗の薹が目的だが、残念ながら見つけられず。
ここは雉も出てくるフィールドで蕗の薹がなくても雉に会えるかもという淡い期待もあったのだが。
一日中肌寒い天気で晴れとまではいかない弱い冬日では、メジロなど鳥の色の識別も難儀して探鳥の楽しみもいまひとつ。
この寒波は一両日中に去るということだが、暖冬に慣れた身にはこの二三日相当こたえる寒さだ。

雪間に見つける

湯守のみ知る谷筋の蕗の薹

雪の宿の庭など、雪解けを待ちかねたかのようにあちこち顔を出しているのを見ることがある。

新潟でもそうだったし、飛騨の奥でもそうだった。
雪間に水芭蕉は4月から5月頃の光景だが、雪間の蕗の薹は3月の景色である。
寒地でそういう具合だから、雪のないところでは今月下旬ともなれば顔をだす時分だ。
毎年そうなんだが、蕗の薹ってけっこう見逃すことが多く、たいがいが薹がたってしまって食べ頃を逃したころに気づくことが多い。
今年は人の多い散歩道を避けて、新しいルートを開拓すれば天麩羅にするくらいの数を拾えるかもしれない。

苦い味

宿にして摘みは尽くせず蕗の薹

早いところではそろそろ蕗の薹が膳に載る頃だ。

雪の多いところでは三月頃だろうか。雪解の合間から顔を出して、そこだけ春がやってきているような。
山の宿に泊まるとそんな景色がよく見られる。
散歩ついでに裏山、裏庭に目をやると意外に見つかるものだ。
雪が完全に解けたら、たらの芽も出るし。ああ、早く山菜のあの苦い天麩羅を食いたいものだ。

味の春

蕗の薹撮ってその夜の卓にのり

この時期は山菜の天麩羅がうまい。

山独活の芽、もう少しすれば天然のタラやコシアブラの芽が出回る。どれも少し苦みがあっていわゆる大人の味。

春キャベツあり、筍あり。春は「味の春」であるとも言える。

見過ごしたもの

腹這へるカメラアングル蕗の薹

梅と椿が咲き誇っている華楽園に入ってすぐ左の足元に、蕗の薹がいくつか顔を出しているのを見つけた。

柵も何もしてなくて、気がつかないでいると踏みつけてしまうような場所だったが、見学客の大半は入って正面の唐風呂やその手前の満開の山茱萸には目が釘つけになるのが幸いしてか、どれもが無事に頭をもたげている。

帰り際、その気づかないでいれば見落としそうな蕗の薹を、腹這いになってカメラに写し取ろうというアマチュアカメラ愛好家がいた。句会では、この蕗の薹のことを話題に持ち出したり詠んだものがいなかったので、ここの蕗の薹に気づいたのはもしかしたら僕だけだったのかもしれない。