かりん糖

刃を入るやばきっと西瓜割れにけり

ようやく第一号の大玉西瓜を収穫した。

音や色など慣れないと熟し具合を見極めるのは難しいが、どうやら許容範囲に収まったようだ。
小玉西瓜も今度は落果させることなく、ちょうどいいタイミングで収穫できたのは上出来である。成長途上のものもいくつかあって今年は満足満足。
果物好きの夫婦にとって西瓜はどれだけ食べても飽きないものの一つである。
今日は西瓜を堪能したあとかりん糖でデザートの締めとなった。

リベンジ

殘りたる西瓜半分ジュースにと

小玉西瓜にチャレンジしてみた。

あと20日くらいまでいけばと密かに期待していたのだが、水不足が原因だろうか旧に元気をうしなって熟すというところまではいかなかった。
それでも割ってみれば西瓜の甘味もあるし食べられないこともなく、それなりに美味しくいただいた。
何年か前に大玉西瓜で成功しているので、同じ難しさがあるのなら来年はスペースを割いて大玉でリベンジしようと思う。
今はずいぶんと数が生った真桑瓜をせっせと食べる毎日である。

励む

冷えすぎて甘露うすれし西瓜かな

冷えすぎると甘さを感じにくくなるものだ。

西瓜が好例である。
井戸水で適度に冷やす、というか火照りを冷ます程度がちょうどいい具合である。
井戸などないから何でも冷蔵庫だが、5度まで冷やしちまったら甘さどころか美味さまで失ってしまうようで残念である。
畑の西瓜はまだ雌花をつけない。つくとなると早朝に受粉にでかけなければならないので毎日チェックはしているのだが。それにしても雨がよく降って元田んぼであった畑の水も簡単には引かないのが気にかかる。
水はけを少しでもよくするため、しばらくは土作りに励まねばなるまい。

皿を見る

夫婦して西瓜の種の数比べ

食べたあとの皿を見る。

今日は種の数が随分違うな。
同じ西瓜を食っても、種の多い部分とそうでない部分があるらしい。
今まではあまり気にしなかったが、一度そういうことがあってからというもの自然に相方の皿をのぞく癖がついた。

西瓜は秋の季語だが、他に色々果物が出回ってきてその旬を過ぎた感があるのは否めない。

当たり外れ

思はざるフォークで西瓜掬ふとは

西瓜はがぶりかぶりつくもの。

そして種をぺっぺと吐き出すもの。
それが、いつしか専用の先割れスプーンで種を掻きだし肉を削って食う。しまいにはメロンのように刻んでフォークで食うとは。
プランターの小玉西瓜がめずらしくうまくできて、早速試食した。
皮近くまで熟して意外に甘いが、市販の西瓜ではここまで多くないだろうというレベルの種がぎっしり。こうでなくちゃと種を舌の上で餞別して吐き出した。

メロンは気温26、7度くらい、西瓜は30度を超えて好まれるという。
30度にまであがると体は糖度より水分を要求するらしい。
原産地のアフリカでは何の味もないものだったが、明治以降改良された品種が渡ってくるようになって今のような甘さが加わったと新聞で知ったばかり。
おかげで今では甘さに当たり外れのない西瓜がいただけるというわけだ。

標高800メートル

百選の水にさめたる西瓜かな

天川村洞川は大峯登山口として修行者宿で知られるが、近くには日本百選の名水「ごろごろ水」がある。

鍾乳洞から流れ出てくる水が鳴る音から名づけられたらしく、大峯山系にしみこんだ雨が地中に湧きだして水量は豊富だ。
その水汲みを兼ねて日帰り温泉を浴びてきた。
洞川は胃腸にいいとされる陀羅尼助の発祥地である。行者宿が並ぶ通りに、修行者が買い求めたりお土産用としていくつもの店が今も営業中。そんな通りに写真のように、豊富な山の水をかけ流して西瓜を冷やす光景も見られた。

帰途、天河神社があると聞いて立ち寄ってみたところ、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神とする大峯奥社ともゆかりある神社だった。市杵島姫命は弁財天ともされ、芸能の神さまでもあり、拝殿に向かって立派な能舞台があってその間を吹きぬく風が涼しくて心地いいこと。

標高800メートルから一気に下った盆地の気温は36度。まだまだ奈良は暑い。

大きな供物

大師堂真中に座して大西瓜

西瓜というのは夏の食べ物というイメージが強い。

しかしながら、秋の季語だとされている。
「瓜」が夏の季語であるので、いったいその違いはどこから来るのであろうか。
歳時記によれば、昔から七夕などに供えられるものであるからとしているが、西瓜提灯などが盆のイメージに沿っているからかもしれない。
いずれにせよ、昼灯なき暗い本堂に目をこらしていて発見した光景である。大師への信仰に厚い檀家からの篤志であろうか。