身の丈

かたすみにあらそひさけて菫かな

どんどん草が萌えるなかにあって、木の下で半日陰となっている場所は遅れている。

だが、そんなところに菫が固まって咲いていることがある。
わざわざ表通りに出て場所争いに明け暮れるより、身の丈を知ってさっさと自分の居場所をみきわめてしっかり地歩を固めようという意志があるように思えてくる。
おのれの本分をわきまえているというか、したたかに生きる道を知っているというのか。
こんな生き方を苦ともせず、自然に生きて來たなら、意外に人生は心豊かになっただろうなと思うこのごろである。

実在の証は

鳥帰る汀に白き糞の跡

いつのまにか数を減らしている。

鴨たちの半分以上が北へ向かったようだ。
池の周りのあちこちのたまり場は糞で白くなっていたが、それもだんだん薄れてゆくようだ。
寂しくなった池でがあがあと鳴くのは留鳥の軽鴨か。

ひとつの奈良

曇天の馬酔木の房の重たしや

枝がたわんでいる。

びっしりと花をつけた枝がいかにも重そうに垂れているのだ。
あんなに小さくて可憐な花でも、集まればそれ相応の重さになるというわけだ。
奈良の公園はいま馬酔木の白、ピンクに満たされている。

いのちよ

虫出や久に師の書をひもときぬ

朝、西の空が真っ暗だった。

やがて風がさわぎだしたと思ったらざあーっと雨が落ちてくる。おまけに大きな雷が何度か鳴る。
冷たい空気が上空に侵入してきた、典型的な雷雨だ。
春になって初めての雷、すなわち初雷である。
啓蟄の頃に鳴るから虫出とも呼ばれると歳時記にある。
雷にうながされたわけではないが、昨日今日と書棚を片付けていて、久しぶりに師の声を聞きたくなった。
何冊かあるうちの最晩年の詩集「花花の記 井上由雄病床詩集Ⅱ」を手にとった。そして驚いた。
ご縁の深かった三十、四十代の頃は、詩のなんと難解なことだろうと敬遠していたが、いま手にとってみると何のつっかえもなくすっと水が喉にとおるように体にしみこんでくるのだ。

たとえば、この短い詩、

「経過」
椿 ぽっ
ひとつだけ

今日は もう落ちないか

「虫の声」
部屋で 虫が啼きだした
どこでだか
何の虫だか

虫が鳴いている
俺は虫だ と
俺にも狂わせろ と

小さな虫にまで、やさしい眼差しをそそいで止まない。いのちへの慈しみである。

書き出しに、
「はじめに

花花である。何の花でもよい。
咲いてくれればよい。庭隅だろうと、道端だろうと咲いてくれれば美しい。
 人もまた美しい。花である。花できらいなものはない。」

なんと素晴らしい師に出会えたのであろうか。

青鞜

若草山見ゆる広野に遊びけり

平城京の朱雀門周りがすっきりした。

遣唐使船がまたお目見えして、観光客用施設も整ったので、ここをベースにあの広い宮城址を散策するのも悪くない。
すでに空は雲雀のにぎやかさ。足もとには草がどんどん萌えて、顔を東に転じるといまだ末黒の若草山がはっきり見ることができる。
すみずみまで歩けば一万歩くらいはいけそうである。
いつもの馬見丘陵公園とはちがって、ここには特別史跡でボール遊びする不謹慎なグループはさすがにいない。ほとんどが観光客であるし。ひたすら歩くのである。そういう意味では野遊びというより青鞜というべきかもしれない。

水鏡

雨濁る水面に空と山茱萸黄

睡蓮が枯れて池に顔出すものはひとつとてない。

雨後だろうか、池の水が薄濁りして底も見えず、水面に映るのは空と池に張り出した山茱萸の花だけである。
山茱萸が咲き出してすでに三週間ほどになるが、いまでは全体の枝にまで広がって、遠くから見ると枯れ木全体が黄色に煙っているように見える。
その黄色だけが池に映えて、これもまたぼおっと煙っている。

春疾風

名園の鹿寄せつけず花馬酔木

馬酔木があるから鹿が入ってこないのではなく、単に垣根でブロックしているだけである。

あいかわらずぎりぎりのタイミングで青色申告・確定申告の提出となるのはおいといて、郵送でもいいところをせっかくだからと提出を兼ねて奈良の一人吟行をしようと思った。65歳以上は無料という吉城園が目的だ。
ここは明治か大正の頃、何の商売だか、とにかく大儲けして羽振りのよかった商人が作った庭園である。ここも間もなく民間に払い下げて高級な旅館になるらしいから、今のうちにじっくり見ておこうという狙いだ。
ここはいつ来ても何かの花が咲いているし、広い庭園はまわりの騒がしさから隔絶されて、聞こえるものは風の音、鳥の声くらいである。
今日はいたるところに白や赤などの馬酔木が咲き、茶花の庭では木瓜がかれんな花をびっしりつけ、枝先には緑の芽ぐみも見られた。ドイツからのハネムーンと思われるカップルには、奈良の馬酔木についていろいろ話を聞かせることができて束の間楽しかった。

それにしても、室内では暖かかったので迂闊にも春の装いで出かけたのがいけなかった。冷たい北風が吹き荒れるような天気で、予定をずいぶん繰り上げて早めの退散となった。