桜ふくらむ

野遊の体型似たる親娘かな
野遊のシャトルに風のいたずらす

平日というのに駐車場がいっぱいである。

今朝は遅霜が降りて冷え込んだが、天気がいいこともあって日中はぽかぽかの陽気となったせいか、休校の子供たちを連れて母親や爺婆などお父さんをのぞいたファミリーがいつもの公園にどっと繰り出してきた。
芝生広場ではめいめいにボールやらシャトルやらフライイングディスクなどでくつろいだ光景がまぶしい。
園のあちこちには薄い紅が灯ってどうやら早い桜が咲き出したようだ。染井吉野はかなり芽がふくらんできて、明日から暖かさが戻るというからいつ開花してもおかしくない。
桜の名所は宴会禁止だそうだが、地方では気にせず花見できそうなところは至る所にある。それなりの花見をすればいいじゃないか。

手を焼く

野遊や球技のあやの片斜面

いつもの公園の激混みを予想して久しぶりに県立民博公園へ。

午後二時頃に着いたら広い駐車場にかろうじて潜り込むスペースがあって公園一周の径をたどる。
谷戸になっている一番奥地が水源となって、そのしみ出す水を集めてちょっとした溜池が整備されている。
望遠レンズをつけたカメラの列が並ぶところを見ると、どうやら目的はカワセミらしい。この時期カップル誕生の時期でいろいろなシーンが見られるからファンが多い。
公園にはあちこちに芝生広場があって、多くの家族連れがめいめいの遊びに興じているが、なにせ丘陵地帯に作られた公園だからすべてが平坦ではなく、複雑な傾斜面となっているのがほとんどである。球技などではこれがまた思わぬ影響を及ぼして、サッカーでは下のチームが不利となるのは必定。蹴り返してもすぐに足もとに転がってくるボールに手を焼くわけだ。

奥つ城

襲津彦の墳やもしれぬ野に遊ぶ

人混みへは行けないからみんな広大な古墳公園に遊びに来る。

ふだんは高齢者ばかりが目立つ公園だが、このところ行き場を失った子供連れの姿がめっきり増えた。
もともと丘陵地帯だから起伏のあるところのほとんどが芝生広場となっており、それぞれめいめい好きなところでボール遊びをしたり、凧揚げをしたり。
蒲公英は西洋タンポポだと思うが年中咲いてるし、下萌えがとっくに始まっていて芝生広場に寝そべるとそれはいい気持ち。
この春は、雨さえ降らなければ平日といえど人出は途切れないことだろう。
ここの古墳公園でもっとも大きくて、国指定の特別遺跡となっている巣山古墳は全長200メートルほどの立派な前方後円墳。見るだに大王級の墳墓と分かる。この辺り一帯は古代豪族葛城氏の奥つ城に当たる場所で、それだけにこの立派な古墳は伝説の武内宿禰かもしれないという。

青鞜

若草山見ゆる広野に遊びけり

平城京の朱雀門周りがすっきりした。

遣唐使船がまたお目見えして、観光客用施設も整ったので、ここをベースにあの広い宮城址を散策するのも悪くない。
すでに空は雲雀のにぎやかさ。足もとには草がどんどん萌えて、顔を東に転じるといまだ末黒の若草山がはっきり見ることができる。
すみずみまで歩けば一万歩くらいはいけそうである。
いつもの馬見丘陵公園とはちがって、ここには特別史跡でボール遊びする不謹慎なグループはさすがにいない。ほとんどが観光客であるし。ひたすら歩くのである。そういう意味では野遊びというより青鞜というべきかもしれない。

ばか広

野遊のボール蹴返す古墳かな

広々とした古墳公園の週末は家族連れで大賑わいとなる。

県内にこれといった動物園、遊園地、テーマパークの類いもなく、しかもここは県営の無料公園ということで天気がいいときは平日とはうって変わっての人出である。芝生の丘、たいていは古墳跡だが、にはシートを広げた家族、グループが半日、あるいは一日をボール遊びや凧揚げなどで過ごすのである。
舗装路は腰に響くので、できるだけ土の上を歩くように道を選んでいると、すると、遊びに来た家族やグループの間を抜けることになるが、どの家族ももちろん楽しそうである。とくに幼児がよちよちと傾斜ある丘を歩いたり駆けたりを見るのはこちらまで楽しくなる。
丘のいちばん上から四方を見渡すと、盆地を囲む山々が目に入り疲れた目も癒やされる思いである。
なにせ広いから駐車場が満杯になるまで人が押し寄せても、テーマパークのような過密感はまったくないところがまたいい。

ボールで遊ぶ

野遊の墳丘転がるボールかな

馬見丘陵公園はチューリップフェア開催中。

県内には遊園地が少ないせいか、週末の天気が多い日は若い家族連れで大変賑わう。
いつもの駐車場は満員札止め。第3、4と回ってようやく確保できた。

幾つもある墳丘にはどれも必ず一組以上は登っていて、弁当を広げたり、子供たちが駆け回ったり。
下から幾度もサッカーボールを蹴り上げては追いかけたり、ビーチボールで親子のバレーボール、等々思い思いの休日を過ごしている。家族の野遊びにはボールがよく似合う。
きっと、それら一つ一つが思い出につながっていくのだろう。

死語

野遊や手指につきし草の汁

「野遊」は今でいうピクニックのこと。

あるいは、もしかしたら「ピクニック」自体がもう死語に近くて、元の意味では使われなくなったとも言えようか。単に野に遊ぶことに飽きたらず、何らかの行楽を伴った外出というニュアンスでもって漸くピクニックという言葉が存続しえる状態とでも言えようか。
「ドライブ」も同様で、単に車で遠乗りを楽しむというような人はまれで、車で出かけて何かをしたり見たり泊まったりなど何らかの目的のための移動手段に成り下がった現代ではもはや死語だ。車を持つこと自体が目的とされる時代はとっくに終わりを告げているとも言える。Fun to driveというキャッチも、ガソリン高の時代となってはなかなか実感しにくいものだ。

世の中いろいろ便利になっていくのはいいが、一方でささやかでいて健康的な楽しみが少しずつ奪われていくのもどうかと思ってしまう。