古都の朝放射冷却底冷す
今日はめずらしく霜が降りなかった。
ただ、ここ毎日は寒い日が続く。予報は零下1度、同2度という日の連続だ。明日は平年並みで昼間9度くらいだという。今月下旬の大寒の頃にはさらに寒い朝が予想される。
天気図を見て、明日辺り高気圧の中心が来そうなときは間違いなく「放射冷却」による典型的な底冷え。
鍋底の熱が全部もっていかれると辺りは霜で真っ白な世界だ。

めざせ5000句。1年365句として15年。。。
古都の朝放射冷却底冷す
今日はめずらしく霜が降りなかった。
ただ、ここ毎日は寒い日が続く。予報は零下1度、同2度という日の連続だ。明日は平年並みで昼間9度くらいだという。今月下旬の大寒の頃にはさらに寒い朝が予想される。
天気図を見て、明日辺り高気圧の中心が来そうなときは間違いなく「放射冷却」による典型的な底冷え。
鍋底の熱が全部もっていかれると辺りは霜で真っ白な世界だ。
蝋梅の枝の元より咲き初めし
まだ咲き始めたばかりのせいか、枝には蕾がびっしりついている。
で、よく見ているうちに気がついたのが、蝋梅というのは枝元から順に先の方へ向かって開いてゆくものらしい。寒いせいか随分日数をかけて咲いてゆくものだ。この分でいくと、枝の先まで開くにはあと一ヶ月もかかりそうなくらいだ。
この時期は遅咲きの山茶花、水仙くらいしか咲いてないので、花を見つけると暫くは立ち止まって香りなども楽しむことができる。
水鳥の一ト日湾処に風避けり
信貴山颪が容赦なく大和川に吹き下りてくる。
100羽以上はいるかと思える鴨たちも、さすが強い風には抗しきれないのか、こんな日は風を避けるようにして川の片側のくぼみに固まってじっと動かない。
橋の上を行く人もまたしっかり襟をたてている。
初売の熊野梛とて古梅園
奈良は墨の都。
古梅園というのは、墨製作がそれまで独占していた寺社勢力が衰えるのに伴い、信長や秀吉が民間の産業振興策として奨励したのにあわせ天正年間に創業したという老舗中の老舗である。江戸時代に入り、南都奉行もおおいに奨励して奈良町を中心に多いときには40軒を数えるほどに隆盛したという。
若草山の麓を歩いていると古梅園の看板があるので、買う気もないのについ店に足を踏み入れてしまった。とても種類が多いことにまずびっくり。さらに昔学校で使っていたものとはちがい値段も相当良さそうである。
ここでもワゴンセールがあってキズありだというのが2,000〜3,000円台で売られている。墨なんていうものは摺ってしまえば皆同じなので、稽古用にはなんら差し支えはあるまい。書道をたしなむ家人用に買って帰ろうかとも思ったが、何しろ用途別に種類が多くてどれにしてよいやらさっぱり見当がつかないので、結局冷やかしのまま失礼することにした。
帰宅してからホームページを見てみたが、門外漢には結局墨というのは大変奥が深いということしか分からず仕舞いであった。
ところで、梛(なぎ)は熊野権現の御神木になっており、その葉は魔除け、お守りとして携行されていたそうである。梛の墨とは実から採れる油から作るものらしい。
もう一つ新知識。新宮市にある熊野速玉神社(小学校の時の修学旅行先)はその昔今のところより南にあったものを移したものだそうで、「新宮」。それが今の市名になっているそうである。御神木は平重盛のお手植えでもあるそうで、もし本当だとすれば樹齢1,000年程度になる。写真で見る限りでもたいそう立派な御神木のようだ。
今日は「奈良検定初級」の試験日なので予約投稿。こういう話もいろいろ受験対策になっているはずだが、さて。
水鳥の早瀬追ふとも流るとも
どんぶらこ、どんぶらこ、と鴨が早瀬を下っていく。
パートナーを追っているのか、それとも瀬に流されているのか、どちらとも言えるが、それにしてもここは流れが急である。下へ流されてはまた上へ飛び、流されながら少しでも流れが緩いところ、澱みがあれば餌をついばむのに余念がない。
この冬もまた鴨たちがいつものところに群れ、春先になれば帰って行く。毎年変わらない営みである。
降臨の神話伝ふる山眠る
午後から葛城・御所方面を走った。
葛城・金剛山の麓は弥生時代から農耕集落が形成されていて、古代王朝の有力な豪族であった土地である。ただ、藤原家と天皇を頂点とする律令制度のもとで記紀が編纂される頃には勝者の論理で歴史が大きく書き換えられたせいだろうか、歴史の継続性という観点からはどうしても理解できない話が多い。
ただ、平野部には神武が国見をした国見山があるし、その辺り一帯が今も秋津洲と呼ばれていること、その秋津洲には景行天皇の息子・日本武尊の白鳥陵があること、御所の九品寺の近くには第二代綏靖天皇の宮址があるなど、初期王朝の拠点であることは間違いない。したがって葛城一族(鴨族)というのは初期王朝では重要な役割を負っていたと考えるのが自然で、4世紀から5世紀にかけて百済の歴史書にも顔を見せる葛城襲津彦や、その娘で仁徳后の磐之媛の存在などかなりの権勢をふるっていたのは間違いない。
さらに、葛城の一言主神は「宋書」や「梁書」に「倭の五王」中の倭王武であるとされる雄略と対等に勢力を張っていたとされるが、やがて一言主神が土佐に流されたという話が伝わるので、おそらく雄略のころあるいはそれ以降に大和王朝の拠点が初瀬地区に移ったものと考えていいと思われる。それ以降は王朝拠点が葛城に戻ってくることはない。
今日は鴨族の神が祀られた高鴨神社(高鴨社)、鴨都波神社(下鴨社)を訪ね、高鴨神社からは秋津洲の眺めを楽しみながら国見山、白鳥陵まで足を伸ばしてみた。暖かくなると格好のハイキングコースにもなる。
笹鳴の二月堂より降りにけり
二月堂に向かう石畳の道で白築地塀の先に笹鳴きがわたってゆく。
築地塀のむこうに神経を集中し耳を澄ましたが、声はすぐに小さくなってどこかへと消えてしまった。