つるし柿セット

とっきょりてふ大和のはれ展秋深し

斑鳩の産直市場で買い物ついでに県立民俗博物館まで足をのばしてみた。

博物館は大和郡山市矢田丘陵の裾の公園の一画にある。文字通りのんびりとした里の風景そのもののなかだ。
この秋は、大和言葉で「ハレ」を意味する「とっきょり(時折)」という特別展示が行われていた。冠婚葬祭や盆・正月、祭りなどの年中行事など、この地方で昔から行われてきた暮らしのリズムを紹介する企画だった。
なかには、こういう道具は昔見たよなとうなづく一コマもあり、心穏やかな気分で外へ出たら、鵙が大きな桜の上で鋭い声を発するのを耳にした。

家に帰ったら、さっそく御所産つるし柿セットの皮むきが待っていた。これも「時折」はいいものだが。

奈良三条通り

墨筆のワゴンセールや秋の暮

奈良は筆と墨の町だ。

正倉院展を見終わって、勤務時代の友人と猿沢の池からJR奈良駅まで真っ直ぐに伸びる三条通りを歩いていると、書道品店が3軒ほどあった。
店内にはさまざまな筆や墨、硯などが並べられているのは同じだが、そのうち1軒の店先には筆や墨などがワゴンに入れられて売られている。決して安いものではないのだろうが、日常書に親しんでいるわけでもないのに妙に懐かしくて手にとって眺めてみたくなった。が、夜の灯恋しさに前回も訪れた店に急ぐ方を優先してしまうのであった。

金切り声

公園の鹿脅かして叱らるる

煎餅を売りつつ鹿の守りびと

奈良公園では毎年100頭を超える鹿が交通事故で命を落としている。

それでも総数が減らないのは関係者の努力に負うところが大きいわけだが、その一端を垣間見る思いをしたのを詠んでみたのが掲句だ。

正倉院展のある奈良博に向かって登大路を歩いていると、「追っかけたらあかん!」という金切り声がする。思わず振り返ると、一人の若者が逃げ回る鹿を追っている。鹿は一目散に道路を横切り公園に逃げ込んだわけだが、声の主は鹿煎餅を売るご婦人。鹿を脅かしたら当然のように鹿は逃げ、それが交通事故を呼ぶ。年間100頭というのは何故なんだろうと思っていたが、このような無知な人による行動が理由で命を落とす鹿がいるのだ。
若者はすごすごと隠れるようにその場を離れたが、誰でも分かりそうなマナーすら身につけてない人が多いのだと思うと暗然としてしまうのである。

高原の宿

しおでの実添へて抹茶をふるまへり

タチシオデの実というのは黒い。

あまりに黒いので最初はヌバタマかと思ったのだが、タチシオデという但し書きがあったので調べると、春は食用に適し薬草としても用いられるそうである。ホテルでは到着した来客のためにロビーのコーナーに茶席を設けられてあり、そこでは抹茶がふるまわれ、洋菓子のメレンゲクッキーという何とも微妙なお菓子も供された。
茶席の床机台に目をやると、茎や葉がすっかり枯れて黒い実がアクセントになったタチシオデがおかれて、それがまた秋の野草そのものの素朴な佇まいを漂わせており、高原の宿に着いたんだなという思いをいっそう深くすることができる。初めての吟行句会を前に落ち着かない気分にいるものには心憎い演出で心を静めてくれるのである。

言葉にできない

トンネルを抜けて紅葉峪の落つ

小海線ローカル列車の旅は圧巻だった。

紅葉である。車窓を覆いそうになるほどの落葉松林では幹や枝に絡みついた真っ赤な蔦が鮮やかすぎる。思わず大きな声を出してしまったのが、トンネルを抜けたと思った途端飛び込んできた光景だ。すべての山肌が色とりどりの雑木に塗りつぶされ、それがまた深い渓谷を形成しながら水とともに深い底へとなだれ込んでいく。

たっぷり20分ほどの紅葉列車を楽しんだら、さらにもう一つ大きな声を出す光景が待っていた。清里高原駅まえの花壇である。ドウダンツツジの燃え方が尋常でない赤さなのである。人工ではこれ以上の深さは再現できないと思われるような紅葉なのである。吟行の仲間一同が異口同音にこの赤さについて口々に感嘆の声を漏らす。

残念ながら、句会でこれをうまくものにしたものは一人もいなかった。というより、誰もこの光景を句に詠んだものはいなかった。それだけこの色が言葉では簡単に表せないもの、安易に詠んだら礼を欠いてしまいそうな、そんな雰囲気すら漂わせていたのかもしれない。

縁日

さつまいもスティックひさぐ鳥居下

本殿前までの参道の両側には屋台がずらっと並んでいる。

今や全国どこへ行っても同じような商品や商売ばかりだと思うが、それでも何を商っているのか一つ一つ覗いてみずにはいられないものだ。鳥居をくぐって最初の店が「さつまいもスティック」。ちょうどきれいに洗われた芋を切り分けて準備しているところで白い身にはっと心を奪われてしまう。思わず買おうとしたが、やはりお参りのほうが先だと思い返したのだった。

今日は一泊吟行のため予約投稿です。

季語

紫の実もあり鄙の花畑

散歩していると、住宅や畑の一角を花畑としておられるうちが多い。

わずかなスペースが秋桜だの、鶏頭だの、ダリアなど種類もさまざまなら色もまたさまざまである。これは何の花、これは何の実とひとつひとつ確かめるのもまた楽しい。栽培品種が増えたこともあるせいか、名前の分からないものが結構あるものだ。紫の実がびっしりとついた小株立ちの木は「紫式部」にちがいないが。

「花畑」は秋だが、「お花畑」は夏だという。「お」がつくかないかで区別する季語というものの深淵を垣間見る心地がする。季語をぞんざいに扱ってはしないかどうか、あらためて自分に問いかけるのだった。

明日は個人的な俳句会の一泊吟行。こころをさらにしてこの目でしっかり見たものを詠もうと思う。