築地塀の中で

姫石榴実の裂けしまま冬枯るる

姫石榴というのは園芸品種で、名の通り花も実も小ぶりで鉢仕立や庭植えにされる。

したがって、実を収穫して食するなどということは期待されてないわけで、たまたま見つけたものは霜に打たれたりして紅黒くひからびた姿をさらしているものだった。

白い築地塀のなかの光景で、かたわらに若々しい蕾を次々に開かせている蝋梅があった。

氷面鏡

神鹿に御慶述べゆく句友かな

吟行句会でよくお世話になる奈良公園。

この日は放射冷却の厳しい朝だったが昼間は晴天、しかも風もほとんどないという絶好の吟行日和。霜解けの公園内のかしこで鹿が日向ぼっこしている。出会う鹿を見つけては「おめでとう」と声をかける仲間もいて、約1万歩の吟行も無事に完了。

それにしてもベテランの方々の言葉をよくご存じであること。この日は大仏殿東にある池も凍っていて、日の射している部分は解けているのだが、大きな杉の木の影になっている部分は凍ったままだ。この景をなんとかものにしたいと粘ってみるが、時間切れ。
披講となって、同じ光景を詠んだと思われる句が読み上げられてハッとさせられた。

大杉の陰に残りし氷面鏡

なるほどなあ、と眼から鱗の思いであった。

初句会

ハングルも英語の絵馬も初詣

絵馬を手にとって願意を読んでみた。

今日は近鉄奈良駅から東大寺二月堂、春日大社を巡る吟行初句会。誰々さんのお嫁さんになりたいという真剣(?)な願いもあれば、ガンが治癒しますようにとの切実な願いも。人さまざまな願いを込めたそれぞれの正月なのであろう。
なかには、ハングル語で書かれたものや英語のものも。

ともあれ、松の内は平穏に過ぎてゆく。

ツーショット

ボーイング飛び交ふ下のカイトかな

親子で凧揚げしているのはお正月風景にぴったり。

子供の頃は骨組みから紙張り、絵付けまですべて自前でやったもので、なかなかうまくいかなかったりして苦労したのも今となっては楽しい思い出だ。最近ではもっぱら西洋凧で、正月なら多分コンビニでも売っていると思うが、風さえあれば誰でも簡単に揚げられてしまい、バランスが悪くて凧がきりきり舞いしたり、地面に頭を打ち付けたまま引きずったりした昔とは大違いである。

今日の大和川河川敷は凧揚げにはおあつらえ向きの風。何組もの親子連れが凧をあげていた。このあたりは旅客機の飛行コースにあたっていて、1,000メートル以下の高度で飛ぶので機体が間近に見える。カメラを構えればボーイングと凧のツーショットなんて確実に撮れることうけあいである。

「カイト」はさすがに歳時記にはないだろうな。あえて「ボーイング」と対比させてみた。

献燈

年男その名を刻み献燈す

どこの寺院、神社でも献燈の石柱が立ち並んでいる。

大抵が講の名であったり、個人や会社の名前だったりするが、なかには年男・年女だと刻んで献燈する人もいる。

吉凶占い

初詣おみくじ結ぶ背伸びかな
背伸びして結ぶお神籤初詣
枝といふ枝に御籤の初詣

僕はおみくじの類いは買わない主義である。

ただ、おみくじを引いては吉だ凶だとはしゃいでいる人たちを見るのは悪くない。誰もがおみくじの中身を真剣に信じている人などいないだろうし、一種の遊びだと思うからである。
また、いろいろなご縁を願って境内の枝などに結んだりしているのも、合格や良縁を願ったりなどする人たちの気持ちが滲み出ていかにも正月風景らしくていい。

朝護孫子寺本堂でお詣りを済ませた人々が境内の木におみくじを結んでいる。そのうち一人だけ、小柄な老女が一生懸命椿の枝に結ぼうとして背伸びしているのが目に付いた。老女が届く範囲の枝にはすでにおみくじがびっしり結ばれているからだ。

朝護孫子寺にて

破魔弓を授ける巫女の紅潮し

信貴山にお詣りしてきた。

シンボルの張り子の虎の前は記念写真を撮る人たちで黒山のたかり。人の列にぞろぞろついていきながら、いくつもの塔頭や祠にお詣りしてようやく本堂に達することができる。その間の賽銭箱の数と言ったら。。。。
本堂の毘沙門天さんにお詣りし、無事に戒壇巡りもすませたら大和盆地の景色をしばらく楽しんで下山する。

神符の授与所はかしこにあるのだけど、開山堂のは巫女さんが日焼けしてしまうんではないかと心配するほど日にあたって紅潮していたのが印象的だった。

福笹を振っては僧侶のすぐ隠る

神仏なんでもありのお山なので、お賽銭をあげて立札に書いてあるとおりにご真言を唱えていると、お坊さんが陰から出てきては福笹を頭上に向けてかざし振ったと思うとまた隠れる。そんな繰り返しがあって、何とものどかというか、笑いが出てくるような可笑しい場面にも遭遇した。