最後の楽園

やる気かと三角野郎いぼむしり

あきが深まり心なしか虫が少なくなっている。

そうなると小さな虫を主食とするかまきりの店仕舞も近い。
今年はまだ産卵の跡を見ないが、我が家のすだれの裏で生まれた子供がまだ生きていれば近いうちにやって来るにちがいないと楽しみにしている。
わが菜園はビニールマルチをしないし、草も生やし放題なので狭いところに毎日見かけるようになった。この辺りでは最後の楽園となっているのかもしれない。
それにしても、三角頭の天辺についた二つの目でにらみ返すのは脅しているつもりだろうが、こちらにしてみれば可愛いやんちゃ坊主にすぎないのが可笑しい。

狩り場

吾が鎌に威嚇の斧のいぼむしり

ここ数日勢いの衰えた草刈に忙しい。

畝も新しくして乾燥防止のため刈りとった草で覆っている。
今日は朝から雨で一休みだが、この雨で先日蒔いた大根が敷草の間から一斉に芽を出してきた。発芽しにくいと言われる人参は、やはりまだのようだがもうしばらく様子を見ようと思う。
草を刈っているとき鎌の先にいたカマキリがあわてて退散したようだが、こいつは春からずっと我が家の庭を餌場としていたのだろうか。はじめは1センチにも満たない子供だったが、見るたびに大きくなってきていよいよ子孫を残すのに忙しい季節となっているはずで、その狩り場を奪い取ってしまったのは気の毒にも思うが、いまごろは新天地で頑張っているにちがいない。

五年の月日

堂廂翳る格子のいぼむしり

半分ほど枯れている。

「蟷螂枯る」は初冬の季語。もっとも、蟷螂には最初から枯れ色している種類もあって、冬になったからと言って変色するわけではないが、ものみなすがれる中に生き残っていると目立ちやすくもなって、そのあわれを言う季語である。
秋篠寺の本堂は奈良時代のものとあって、屋根を含めて堂々としたたたずまいで南面している。おおきな廂が影を作るものの、やはり秋である。昼前後の日差しは堂壁の下三分の一ほどにさし込むようになった。日の当たる部分の壁、柱は秋の日差しにほんのり温かい。
秋篠寺の技芸天を詠んだ稲畑汀子の名句、

一枚の障子明りに技芸天

があるが、その汀子の句を天下たらしめた障子戸の格子に蟷螂が動かないでいるのだった。

秋篠寺は5年前結社に入会して初めての吟行にして、初の句会体験をした思い出深い場所だ。
悲しいかな、5年程度ではめだった句力の向上も感じられず、すごすごと元来た道を戻るしかなかったのであるが。

隙見せず

十分に肥えて蟷螂枯れそむる
枯れし眼の瞳もの追ひいぼむしり
蟷螂のアームかくかくロボットに

身の丈四寸。大きい。

身じろぎもせず警戒している。
隙あらば逃げだそうと機会を狙っているのか。
突き出したボールペンに対して、的確に焦点を当てているような顔の動きである。
どことなく、蟷螂というのはロボットの動きに似ていて、ジーコジーコと関節を中心に動いては静止するみたいで、無駄な動きは一つもないように思える。
これも、獲物を確実にしとめたり、危険からすばやく逃れる術なのかもしれない。