時間感覚

夏至の日の沈むに間ある端山かな

爽快な夏至であった。

梅雨というのに湿度が低く気温が高くとも風が涼しい。
菜園でササゲやインゲンなどを植え、信貴山の方を仰ぐと6時までにはいくぶん余裕がある間合い。夢中になっていると猫どもの夕食の時間の6時を過ぎてしまいがちなので、時刻を計るのに夕陽の位置が賴りとなっている。時計はもたなくても最近はだいたいの時刻は分かるようになった。
帰ってみれば6時15分ほど前でぴったし。
これから日が短くなってくるので、その感覚も徐々に身についてくるだろう。
ちなみに時計をもたなくなって久しい。時刻は携帯賴りだが、これも畑には持って行かない。作業するうえでポケットには邪魔なのである。飲み水や苗、菜園道具以外何も持って行かないのだ。

ナス1本が元気がない。だからすぐに虫が来る。今日は予備の苗に植え替えた。

新月に起きる

日の蝕の夏至の光りを奪ひけり

今日になって気づいたが昨日は夏至で、しかも夕方には部分日食もあったとか。

とくに夕方に起きたせいか日食には全く気づかなかったという鈍間ぶり。
もしかすると自分をとりまく自然の動き、移ろいというものに鈍感になっているのではないかとも思うのである。
かつては日食があると天変地異の前触れではないかと大変怖れられたそうであるが、それが政ごとに利用されたり、あるいは神話での復活を暗示するキーワードとして用いられたり。
とまれ、気づくことさえなかったのだから今回の蝕も単なる天文的な偶然がもたらされたことだけは確かである。
ところで、日食は新月の日、月食は満月の日だとご存じでしたか。

紫外線

老班の夏至の鏡に映りたる

こんところ急に老人性色素斑、すなわちシミが増えた気がする。

とくに頬の高い部分に多いようである。
意識して肌を焼いた記憶はないのだが、もともと日焼けには弱い質だったので今頃になってその弱点がさらされているようだ。
すでに紫外線はあふれている季節。夏至だからといってこれから注意するものではないが、やはり夏至となるといよいよ盛夏の季節を迎えるのだなと思う。

恬淡と

夏至の日の腕に時計のなかりけり
ノー残業夏至の巷の火照りして
夏至の日や明日より残照惜しまんか
夏至の湯を日のあるうちに立てにけり
夏至の湯に浮かべるもののなかりけり
夏至の湯に白きブリキの船もがな

夏至の日を理由に時計を外したわけでもない。

俳句をやるおかげで、暦、二十四節気、七十二候など季節のものには心動かされることが多くなったが、通勤電車とも無縁だし時刻そのものに左右される機会は明らかに減っている。
外出するとき腕時計なるものを巻かなくなって久しい。必要ならば、どこに行くにも必ず持っているだろうから携帯電話で見ることができる。
第一、この暑さである。皮バンドなどとても不快な代物で、これを金属のものに替えたところで、手首の辺りがジャラジャラしてはかなわない。
この季節、適度に灼けた半袖の腕がむき出しになる。その腕には何もなにも身につけてないし、その手首にも時計の跡すらもない。この季節だからこそ見えるシーンではないだろうか。

歳をとっていいと思うことは、どこに行こうと身につけたり携帯したりするものが少なくて済むことである。その恩恵を最大限に活かさずして何の毎日であろうか。
腕時計にかぎらず、ものに頼らず、名からも己を解き放って恬淡とした日々を過ごすのが願いである。

雨の国道

ガソリンを満タンの朝夏至る

台風の影響で大雨が心配だったが、母親の退院を見届けに帰郷した。

名阪国道は天理と亀山を結ぶ自動車専用道路であるが高速道でも優良道でもない。
大半を伊賀盆地を東西に横切る道でほとんどを山地に囲まれて走ることになる。
この時期は緑が大変美しいシーズンで走っていても気持ちいいものがあるが、雨ともなるとさすがにアップダウンの多い道では気を遣うもので句のことなどを考える余裕はない。

来週初めには今後の治療について担当医と話し合う必要があり、これからも帰郷の頻度は高くなりそうだ。