発祥は

春めくやこんなところに瓦蕎麦

竹内街道の近く、当麻の道路沿いの何の変哲もないところに瓦蕎麦の看板。

珍しい店があるもんだと思って調べたら、瓦蕎麦の発祥は山口県らしい。
関東でもやはり見たことはなかったのが合点がいった。また、どこかローカルのイメージがあるうえ、蕎麦よりむしろうどん圏の関西で見かけるのは意外なことである。
蕎麦と言えばざるというイメージなのでいつも通り過ぎるだけで終わるが、春になったことでもあるし次の彼岸参りのついでにでも寄ってみるのは悪くない。

手つなぎ

園バスの園児吐き出し春めける

季節違いの暖かさ。

へたすると二月ほど先に進んだかと思える陽気である。
家の前は園バスの停留所。
暖かい日射しに包まれた園バスから園児が元気に降りてきた。送迎の教諭も満面の笑みを浮かべて親御さんに挨拶してゆく。
親子で手つなぎ家へ向かう姿を見送りながら、ほのぼのとした暖かさを感じる午後であった。

エネルギー

春めくやミルク一函買ひに出て

気温が数度上がっただけですごく暖かく感じる日だった。

昼間ずっとやわらかい春の日差しがあったからだ。
あらためて太陽のエネルギーは偉大だと思う。
このエネルギーなくしては植物は光合成できないし、酸素も供給できない。植物が炭素を取り込んで有機物を作り、それを人間などの動物がエネルギーに変えて活動する。そのときに呼吸によって炭素は大気に戻されるし、植物や動物の遺骸を微生物が分解するときも炭素が放出される。このように炭素は循環するわけであるが、エネルギーはこれら活動によって大気に放出される。
人間が化石燃料を発見してこれをエネルギー源として産業革命が起きたわけだが、これは過去の植物が溜め込んだ太陽熱エネルギーによる炭素を一気に使い果たしているわけで、歴史上かってない規模で炭素が放出されていることになる。
経済活動によって炭素が増えたように言われるが、近年は化石燃料を原料とする肥料に依存する農業が最も排出量が多いと言われるようになった。化学肥料に依存するようになって大地を耕せば、取り込んだ炭素を取り組む微生物が姿を消し一気に炭素が排出されるからである。
酪農による牛のげっぷが炭酸ガス濃度上昇に荷担しているという説もあるが、それよりは化学肥料依存による炭素濃度上昇のほうがはるかに多いのである。
その酪農だが、いま日本の酪農は大変な苦境に立たされている。コロナによるインバウンド需要、給食需要縮小のため生乳を捨てざるをえないところまで追い込まれている。工業製品のように在庫がきかないし、余った生乳を弾力的に乳製品に転化するルートも閉ざされているからである。さらに円安によるえさ代高騰もあって廃業寸前のところまで追い込まれている農家が多いと聞く。
国内の酪農をとりまく環境はきびしいが、せめて牛乳なり国産の乳製品を買うのも支援になろうか。

合流

春めきし水の出会ひも大和川

その名もずばり河合町である。

盆地のど真ん中、佐保川、初瀬川、飛鳥川、曽我川など歴史に知られる名の川が一カ所に合流するあたりの町である。大和三大奇祭・砂かけ祭の広瀬大社が知られるが農業主体の町である。
弥生の頃はおそらく湿地帯で、いくつもの支流が複雑にからみあうような場所だからたびたび水害に悩まされてきたところである。ここに拠点を置いたという古代豪族はよく知らない。
昔はともかく、今は治水対策もすすんで肥沃な田園が広がっている。
春の水を集めた大和川の水面がかがやきをます季節である。

新顔

一発で車庫入れ決めて春めける

朝からのこぬか雨が止んで暖かい日となった。

外へ出ると万物がいまにも動き出しそうな気配がかしこに漂う。
明後日は啓蟄。虫たちの季節も始まるのだ。
待ちかねた春を実感できるようになると、何をやるにも弾む心地を禁じ得ない。
スーパーの駐車場だって真っ直ぐとすんなりと入れることができた。
夏野菜のトップバッターとしてナスとピーマン、シシトウの種を仕込んだ。これから約二ヶ月の育苗期間が始まる。
キジ虎君が亡くなって二日。もう新顔が顔を出した。みぃーちゃんには落ち着いた日は簡単にはこないようである。

汗ばむ

春めくや腰には脱ぎしもの巻いて
春めくや携行ボトル手に持ちて

もう本格的な春である。

考えてみれば、もう二月も終わり。当たり前の話だが、この冬の寒さがあまりに長く続いたので、気持ちには急に春めいてきたのについていけない感覚をともなっている。
今日は、冬のかっこうで出てきたものの、歩いているうちに汗ばんできたのだろう、上着一枚腰に巻いて歩く人が見られた。
真冬にくらべたら確実に上着二枚は必要でなくなって、身も心も軽い。水分もペットボトル小瓶でよかったのが、今日などは600mlサイズでも足らないくらいだ。

柔らかい灯り

絵手紙の文字よく滲み春めける

夕刻より雨が降り始めたようだ。

「ようだ」とは、雨音は聞こえないけど、走り去る車の音がいつもよりくぐもっているからだ。はたして、外に出ればポツリポツリと撫でるように雨が手に当たる。空気もどこかなま温かい。
春の雨だ。
2キロ先の駅近辺の灯りが柔らかい。

冬の遠灯りは冴えてまたたくようだが、春はこころなしか滲むように見えるから不思議だ。