寝床

めぐる季にそひしたがひて炬燵据う

もう戻らないと決めた。

数日前までの冬とも思えぬ異常にあたたかい、ときには暑いほどだったが、そんな日はもう帰ってこないだろうと。
とくにここのところ猫どもがうるさいので、今朝は朝の短い時間だけ床暖房を入れたらいっぺんにおとなしくなった。
ずっと曇、ときどき雨の寒い一日だったし、何より部屋の中も暗いのでよけい寒々しい一日である。今から暖房に頼ってしまうのは気が引けるが、思い切って連中のために床暖房の上に炬燵を置くことにした。設置している間にも炬燵布団にもぐり込んできて邪魔といったらないが、これで朝晩の喧噪はいくぶんか緩和することに期待したい。
ま、人間どもは毛布や蒲団を重ねたりしてぬくぬくとしているのだから、連中もあったかい寝床は必要だろう。
これより半年、居間の相当部分を猫どもしか利用しない炬燵がでんと中央に座るのである。

再挑戦

パン焼器仕掛けてねまる炬燵かな

家人が作り置いてくれたパンもそろそろ底をついてきたようだ。

そこで久しぶりに食パン作りに挑戦。
分量などすっかり忘れているので説明書を見ながら調合。
スウィッチポンで4時間ほどまてばできあがり。
あとは寝て待つだけのはずだったが、なぜか膨らんでない。あちゃあ。
何が悪かったのか。首をひねるばかりだけで、明日もう一度挑戦してみよう。

愚直な大家

執筆も客をむかふも炬燵かな

2DKの公団アパート。

六畳の居間の半ばを占める炬燵に先生はいつも座っておられた。
そこへ同じ市に住む小生が担当となって毎月玉稿をいただきに伺うのであった。
先生は「最後の文士」と言われるような武士然とした佇まいとはうらはらに大変好奇心が旺盛な方で、若輩の私にも次から次へと質問を浴びせてこられあっという間に二時間ほどが過ぎてしまうのだった。
若い頃騙されてサハリンの缶詰工場に売り飛ばされたり、左翼思想に傾いたかと思うと弾圧であっさりと転向してしまうなど波乱に富んだ人生だが、その愚直ともいえる生き様が先生の魅力となっていて、とくに講演会などでは諧謔に富む話にだれもがその人となりに魅了されるのであった。
一作家の本を題材に毎月一作品、二年間原稿をいただいた「名文鑑賞」という欄が、その後福音館書店から「文章教室」という著作で出版されたのは私にとっても忘れられない思い出となった。
先生の名は八木義徳。平成11年11月没。享年89。
検索すると先生の年譜があったので紹介する。

ほどよい距離感

宿題をしつつ嬰守る炬燵かな
宿題に飽きてゲームの炬燵かな

電気店は久しぶりだった。

年末だというのに大型フロアには客がまばら。
全国チェーンの大型店と言えど経営は大変だと聞くが、想像以上に良くないようだ。
今日は猫どものために省エネ炬燵の良いのがないかと見に行ったのだが、驚いたことに炬燵コーナーは狭い隅に追いやられてしまっている。しかも、かつては炬燵布団とセットの大手メーカー品が競うように並んでいたのが、今はヒーターと炬燵フレームが別売りになっていて高級感からはほど遠いような品ばかり。
かつての家電の雄も白物家電の高級品にしか生き残る道はないのかもしれない。

それにしても、エアコンや床暖房の普及などもあって、炬燵を囲む団欒というのはもう過去の話になっていくのだろうか。
宿題の机代わりになったり、家族全員が足を突っ込んでテレビを見ながら蜜柑を食べたり、トランプ、ゲーム台になったり、ときにはそのままうたた寝のゆりかごに。家族の息づかいを間近に感じ、顔色や体調の変化にもすぐ気づける。スキンシップまではいかずともちょうどいい距離感をもたらす。

これらも昭和の懐かしい風景になってしまうんだろうか。

団らん

スマホ見て誰も語らぬ炬燵の座
テレビ見える席が上座の置炬燵

今年は炬燵が入るのが早かった。

我が家のは炬燵と言っても置炬燵で、しかも床暖房の上に敷いたものだから、うたた寝にはもってこいだ。一応テレビのリモコンも持ち込むが、なんのことはない、ものの十分もするかしないかのうちに寝入ってしまうのが落ちである。
一昔前なら、卓の上には新聞や蜜柑のもりがあったものだが、今や新聞ではなくスマホが主役。若いものたちは画面に食い入ってメールをしたりゲームに夢中になったりで、語りの団らんというものははるか昔のことになってしまった。

寒い日

寒がりの猫を理由に昼炬燵

今日は昼間から暖房のスウィッチが入った。

それも猫を言い訳にしてだ。あろうことか、あまりの心地よさに猫と競うようにして昼寝してしまった。気がついたら足下の毛布の中に添うようにして猫が丸くなっていた。