広き川狭く使うて鴨の陣
小鴨が幅広い大和川のごく一カ所に密集するようなかっこうで群れている。
陣を敷くと言いうよりは、仲間同士集まって休んでいるようである。そう意味では浮寝の集団というほうが正しいかもしれない。
ここらはヒドリガモが多くいて川幅いっぱいに群れていたのだが、最近は数も少なくそんな光景も見られない。
環境の変化か、あるいはここよりはもっと居心地のいい場所が見つかったのか。渡り鳥にとってこの国がいつまでも頼りがいのある国であるように。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
広き川狭く使うて鴨の陣
小鴨が幅広い大和川のごく一カ所に密集するようなかっこうで群れている。
陣を敷くと言いうよりは、仲間同士集まって休んでいるようである。そう意味では浮寝の集団というほうが正しいかもしれない。
ここらはヒドリガモが多くいて川幅いっぱいに群れていたのだが、最近は数も少なくそんな光景も見られない。
環境の変化か、あるいはここよりはもっと居心地のいい場所が見つかったのか。渡り鳥にとってこの国がいつまでも頼りがいのある国であるように。
風おさへ水おさへつけ鴨降りぬ
蹼は前へ進めるだけではなく、方向やスピードの制御をもコントロールするようである。
翔つときは水面を蹼で何度も蹴りながら助走スピードを稼ぎ、着水の時は蹼で水面を抑えるように着水する。
翔つときにくらべて着水の滑走路は案外コンパクトである。
それは離陸の主役はキックであり、十分に加速するには時間がかかるからである。対して着陸は、そのスピードを殺すのは逆噴射するように広げる翼なのである。もう十分にスピードが落ちたとなって、両足を踏ん張って水面にブレークをかけて着水するのである。
実は、鴨の着水にはこういう句がある。
太き尻ざぶんと鴨の降りにけり 阿波野青畝
このような句があると、後進は実にやりにくい。
池の水引いて沖なる鴨溜
鴨が来る池の水量がずいぶん少なくなった。
例年に比べ1メーター近く下がっているので、池の縁は底が露わになって汀が沖に延びている。日当たりのいい汀には、セキレイの番が水浴びをしていたり、ゆったりとした時間が流れる。今日も小春日和だ。
すでに真鴨が飛来しているが、鴨たちは沖の中央あたりでかたまっている。
満水のときには、足下にまで鴨たちが来てパンなどをねだるほど近い存在なのだが、今年は双眼鏡で眺めなければよく見えないほど遠い存在となっている。
十月には二週連続して台風が来るなど、降雨量は問題ないと思うのだが、いったいどういうわけだろうか。
水尾引くかなきかに鴨流る
泳いでいるわけではなさそうである。
ただ、どこへ行こうという意志があるわけではなさそうで、はっきりとした水尾も引かずただ流れているという感じ。
餌を十分摂った後の消化タイムかもしれない。
呑気に見えて、実際は水中の足はゆっくり動いているのだろうが。
声のして鴨来たるらし夜の川
日が落ちるのが早くなった。
薬をもらいに行って、帰る頃にはとっぷりと暮れている。
堤防に回ってみると闇の中から聞き覚えのある鳴き声が聞こえてきた。ヒドリガモのようである。昨年は一昨年の半分くらいしか来なかった。今年はやっと来たには来たがさらに数が少ないようだ。それとも本格的な渡りはこれからなのだろうか。
行き交ふは人の笑みなり鴨の川
今日は往復20キロほどのポタリング。
盆地の北や南で生まれた支流が大和川に合流するあたりを見に行った。
これらの支流沿いの土手を組み込んで、奈良市内から西の京、斑鳩へ、郡山から飛鳥方面へなど、サイクリングコースが用意されているが、コースがあちこちで分断されいつの間にか一般道を走らされるという具合で、残念ながら整備状況は本腰をいれているようにはみえない。観光地としてこれらを本格的に整備すれば他府県からもっと人を呼べるだろうに、なにしろドル箱の観光資源を数多くもつゆえに期待は薄いかもしれない。
その合流地帯あたりだが、何本もの支流が次々と流れ込みようなところなので当然人家からは遠く、風をまともにくらってしまう。季節がそろそろ終わりに近づいていることもあって行き交う人は稀でひたすらペダルを漕ぐしかなかったが、それでも小鴨の群れが休んでいるのを暫く眺めていたり、行き交うサイクリストと合図の交換をしたりしていると気分も暖かくなるもんだ。
10キロほど走ったところで飛鳥石舞台古墳まで20キロという標識があり、自宅からは60キロ足らずで飛鳥を往復できることが分かったところで引き返すことにした。