昆虫博物館

昆虫博物館の放蝶温室で

時なしの園に夏蝶ひらりかな

橿原市昆虫博物館の放蝶温室はまさにパラダイスである。

昆虫博物館の放蝶温室で

琉球列島の気温に調整された温室では、ハイビスカスなどの亜熱帯・熱帯植物が茂り、大蝶・オオゴマダラなどの南国の蝶が年間を通して優雅に舞う。
このオオゴマダラというのは羽を広げると幅10センチくらい。この大きな蝶がグライダーのようにゆっくり滑空するかと思えば、羽をゆっくり羽ばたかせながら舞うように飛んだりする。このように悠然とした行動には理由があって、この蝶の幼虫はホウライカガミという毒のある植物の葉を好んで食べ、この毒が成虫になっても体内に残存するので、襲う天敵がいないからなんだそうである。

これら蝶の餌となる植物の栽培温室や、卵からサナギまでを飼育する裏方の仕事場も見学することができたのは、「鎮守の森を観にいこうかい」の行事ならではのことで、大変有難い企画であった。

磐余の池跡にたつ

どの筋も三寸ばかり蜷の道

昨年だったか、磐余の池の堤防跡ではないかという遺構が発見され話題になった。

池の堤防跡
道路整備に際して調査が行われ、写真右の森から左の住宅地にかけて堰堤があったことが分かったという。周りを見てみると多武峰から緩やかな傾斜をみせながら盆地に向かって降りてきており、どれもが堤防になりうるような感じで、その昔あちこちに用水池があったとしても全然不思議でない地形をしている。
随行の纒向学研究センターの主任さんの話でも、「磐余の池」というのはいくつかの池を総称して言ったのではないかという説を披露されていた。たしかに、このあたりの地名の池之内とか池尻とかに池に因む名が残っているので「磐余の池」はここらあたりにあったのは間違いないのだろう。

謀反の疑いがかけられた大津が飛鳥京から訳語田(おさだ)、今で言う現在の近鉄・大福駅近くの戒重という字のあたり、の自宅まで護送されたとされる、その経路としてこの池のそばを通りかかったのは間違いないだろう。その日のうちに死を賜っているが、この池の名が詠み込まれている辞世の歌はあまりにも有名だ。一方で、妃の山辺皇女は半狂乱となって裸足で髪振り乱し皇子を追い自死したという話が伝わっているが、その皇女にとっては途中の景色などは全く目に入らなかったにちがいない。

いつの頃か池は埋められ昔から田として利用されたきたと思われるが、現代は無農薬農業を目指しているのかどうか、田植えをまつばかりという田には皆一様に10センチほどの、幾筋もの田螺の這った跡がある。いったい最後に田螺を見たのはいつのことだったのだろうか、あまりに遠くて思い出すことができなかった。

姉と弟

二上をはるかに歌碑や蘆茂る

吉備池池畔の句碑
もゝつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲がくりなむ 大津皇子 巻3ー416

大伯皇女の歌碑
現身の人なる吾れや明日よりは二上山を弟背と吾が見む 大伯皇女 巻2−165

磐余の東にある吉備池から西には二上がはっきりと見える。

大津辞世の歌、姉の鎮魂歌の碑が葦茂る吉備池畔にあるが、姉弟の響き合うような歌の調べを聞くにはまことにふさわしいロケーションと言えるだろう。

追)池のすぐ北にある春日神社には皇子と皇女の別の歌碑が建っていると聞いたのですが、団体行動なので機会をあらためて訪問したいと思います。皇子のは懐風藻からの漢詩です。痛切な響きです。死に臨んでこのように歌えるというのは、言い伝え通り皇子の非凡な才を示していると思います。

赤黒い実

桑の実に足の止まりしハイキング

桑の実を採る

吉備池のほとりに桑の実が成っている。

熟年組が多いのに桑の実を初めて見る人が多かったのは意外だった。もちろん、食べられることを知っている人も少ない。ガイドのすすめがあってようやくみんなが口にしたのだが、手入れもされてないような木のくせに味の方はしっかりと甘くて舌の上で柔らかにつぶれるのであった。

吉備池廃寺跡

大寺の跡みずくまま花うばら

大寺跡みずける池や花うばら

近鉄大福駅から南へ15分ほど歩き、西に磐余の地を望むあたりに吉備池廃寺跡がある。

吉備池廃寺跡

ただ、その一部が江戸時代に灌漑用に築かれた池に埋もれてしまっているので、ここにかつて最初の勅願大寺「百済大寺」があったとはとても信じられない。
舒明11年(639年)発願、天智7年(同668)完成したという「百済大寺」は東西、南北とも約150メートルの広大な敷地に、金堂、講堂の他推定高さ64メートルの九重塔がそびえていたという。法隆寺の五重塔をもしのぐ高さだ。
百済大寺は、その後天武2年(同673)に解体されて高市に移築され「高市大寺」そして「大宮大寺」となり、さらにまた文武朝には飛鳥京「大官大寺」として九重塔、金堂が建てられ、平城京に移ってのちに大官大寺は焼けたが716年現在の大安寺に移築されたという変遷を経ている。

百済大寺跡として国の史跡に指定されたのが2002年でわずか10年ちょっと前にすぎず、遺跡の本格的な保存はまだこれからという状況である。ふだん誰も立ち入らないのであろう、池の縁は雑草に覆われていた。一行がこれを払いながら進んだ後には、はっきりと一筋に草が踏まれた跡が残るのであった。

飛鳥京からみた香久山

香久山の意外に低し花樗

山ならぬ丘の形(なり)負ひ花樗

万葉の森の花樗

昨日は桜井市「森とふれあう市民の会」主催の鎮守の森を観に行こうかいで、近鉄大阪線大福駅を出発点に同耳成駅に帰ってくる、香久山を時計回りに一周するウオーキング。

香久山の東側麓に「万葉の森」という散策の径が整備されており、ここでも草木に因んだ万葉歌碑が道々に建てられている。今月上旬の奈良公園ではまだ開花していなかった栴檀も、下旬ともなるとこの散策路を覆い被せるように満開だ。

万葉の森
散策路は北から南に向けてゆっくりと登り道となっており、その道が尽きる辺りを分岐してさらに登り道を進めば香久山頂上に行き着くという。
スタートしてからずっと気になっていて何度も地図とにらめっこしてはそれらしき辺りを見てきたのだが、いったい香久山とはどの山をさすのか、はっきりとした確証が得られずにいた。盆地の平らな部分に単独でいる耳成や畝傍ならば遠目にもすぐに見分けられるのだが、香久山だけは今日まで分からずにいたのである。

万葉の森を香久山の南側に降り、さらに西側に回って、飛鳥の雷の丘から真っ直ぐに北上する県道24号線沿いの奈良文化財研究所藤原旧跡資料室のあたり、飛鳥京の東に出てはじめて香久山の姿をはっきり確認できたときは、ようやくつっかえがとれたような気がした。さらに言えば、この資料館は飛鳥京からみると香久山を借景とする位置に建っていると言える。
香久山は単独の山ではなかった。それに、意外に低かった。だらだらと小高い丘陵やその間に集落を形成しつつ多武峰の方から飛鳥京に向かって山が降りてくるのだが、南北に連なるその最終の丘が香久山だったのだ。その姿形は飛鳥京からしか見えないとも言える。しかもそれは一部にすぎないのであるが。

持統の見た「白妙」とは、ほんの目と鼻の先ほどの距離だったにちがいない。歌のなかでは「干すらし」と推測しているが、実際には肉眼ではっきりと分かっていたと思うのだ。