岩ばしる垂水の

みこころをまさり猩々袴かな

鏡王女の歌碑
秋山の樹の下隠り逝く水の吾こそ益(ま)さめ御念(みおもい)よりは 万葉集巻2-92 鏡王女

猩々袴が咲く谷沿いに上ってゆくとその歌碑はあった。

王家の谷「奥の谷」では舒明天皇陵のさらに奥に鏡王女の墓があるというので逸る気持ちを抑えながら細い道を上るのだが、最初は王女の墓にたどりついてもその歌碑が見つからなかった。それもそのはず、その歌碑(揮毫犬養孝)は谷の小さな流れの中にあったので気づかなかったからだ。
天智の歌「妹が家も継ぎて見ましを山跡なる大島の嶺に家もあらましを」に対する返歌だが、「落ち葉の下に隠れて見えない水、水脈のように流れている水のように、外見では分からないでしょうけど私のあなたへの思いははあなたの思い以上に深いのよ」という、まさに歌そのものに似つかわしい佇まいと言おうか、大水でも出れば急流に翻弄されかねない場所に据えてある。

なお、犬養「万葉の旅」に掲載された写真では王女の墓は松の木19本に覆われて孤影悄然たる雰囲気が漂っているが、今ではすっぽりと覆う杉に替わっていて風景がまるで違う。今は桃の花と薄墨桜が満開である。
鏡王女の墓

なお、鏡王女は額田王女と姉妹だとされているが、奥の谷と呼ばれる舒明ゆかりの狭い谷にどうして彼女だけが埋葬されているのか。実はそうではなく、彼女は舒明と関係の深い女性だったのではなかろうか、たとえば親子、少なくとも養女ではなかったか、という思いを強くして下山したのであった。

モチーフは塼仏

麗かやおはす脇侍の六頭身

三尊石仏さんのうち薬師如来とされる仏さんは椅子にかけた座像である。

一方、脇侍の両肩侍像は立っておられて、六頭身のせいかどうかどっしりと見える。加えて、三体とも大変柔和な表情をしておられるのが白鳳彫刻の特徴だそうだ。
平面な石板に彫られた像なのにこのように立体的に見えるのは、さまざまな工夫が随所に施されているためで、モチーフとしては飛鳥の「橘寺」の塼仏に酷似しているという説明があったが、私にはむしろそっくりのように見えて、この塼仏をモデルに彫られたものではないだろうかと思えるのである。

諸葛菜の里

歌人の眠る丘へと諸葛菜

奥津城の標しならんや諸葛菜

集落の北側、現地で通称「奥の谷」と呼ばれる舒明天皇陵や鏡王女の墓があるエリア入り口で諸葛菜の花が咲いていた。

白鳳の石仏さん

野遊びや薄紅引ける仏さま

忍阪へ
天王山古墳の探検のあと、忍阪の集落に下る。

ここは神武東征の際、現地勢力の抵抗があったとされ神武が楯としたと伝わる岩などが残されている古い土地だ。
最初に着いたのが石位寺で、白鳳時代作と伝わる薬師三尊石仏(重文)が「さあ、どうぞ」と言わんばかりに我々一行を待っていてくだすった。というのも、この仏さんは常時公開されてるわけではなく拝観するには事前に連絡が必要で、この日のために地区の町おこしプロジェクト「TEAM忍阪」を代表して、区長さん(写真マイクをもっている)自らがこのあとも各所を案内くださるなど、準備万端整えていただいたおかげだったのだ。
忍阪地区長さん

仏さんは大変保存状態がいい。というのは、かつて全体を黒漆で保護し、要所要所が金箔だったことや、おそらく屋内保存の期間が長かったことなどが要因である。一説には、額田王女の念持仏だったということだが、真偽のほどは分からない。
山口誓子の詠んだ「雨蛙黒き仏の宙に鳴く」の「黒き仏」というのはこの仏さんが漆塗りだったことを言ってるのではないだろうか。

いずれにしても、忍阪に興味をもたれた方には先に紹介したTEAM忍阪のホームページが大変よくできているので一読をおすすめする。

古墳探検

ジーパンに着替へ宮司の花衣

天王山古墳の探検

倉橋には宮内庁が定めた崇峻天皇陵があるのだが、それはありえないと解説員さんが言う。

実際の墓はさらに忍阪へぬける「倉橋ため池」をまわった先の天王山古墳で99%間違いないらしい。50メートル四方くらいの方墳で、旧古墳の上に築いたものだ。何しろ尾根のあちこちが古墳という土地柄なのである。古墳の上の古墳もあれば、古墳の上の神社もあるのだ。
この古墳は、宮内庁の管轄には入ってないのでだれでも玄室に入れる状態である。天皇陵で直に玄室には入れるところはあまたある陵のなかでもここだけだと言うので、写真の通りごくせまい入り口だが勇気を出して潜ってみることにした。中は天井が4メートルほどあって圧迫感がなく、しかも意外に広いので参加メンバー50名ほどがすっぽり入ってもまだ余裕がある。

倉橋でガイドの役目を終えられた等彌神社の宮司さんも昼食後は一般参加者に混じって参加されることになった。ここでは最初は「ここはお墓やから。。。」と言っておられたが、暗い玄室に入ってみるといつの間にかみんなと一緒に説明を聞いておられるのを懐中電灯の灯りの中に発見したときには大いにおかしかった。

ちなみに崇峻天皇は592年蘇我馬子に殺された天皇として知られているが、こぼれ話として聞いたのは、身の危険を感じた崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が出羽に逃れ、庄内平野を干拓し出羽三山を開いたとされている。皇子は当地の下居神社の下社を出羽に鎮座し大和をしのばれたということだ。そんなご縁でいまも出羽との交流は続いている。

市名の由来は

桜の井一夜で埋む芥かな

古井戸に降り敷く花の吹雪かな

桜井の井に花散りぬ花の散る

落花掃く人の未だに来たるなし

落花掃く能はぬなりし雨やまず

庭掃くを躊躇ひをりて花の散る

櫻の井

桜井駅を南に向け出発すると10分も行かないうちにそれはあった。

「櫻の井」跡。
夜来の春嵐で井戸に懸かる桜が一面に花を落とし、いわれが彫られた石碑も例外なく散った花びらをまとっている。
5世紀初頭第17代履中天皇がこの地においでになって、桜の花が散りかかるこの井戸の水を賛美されたということから「櫻の井」と呼ばれている。

春嵐の歩く会

葱坊主音羽の山と競ひをり

葱坊主授かりしもの透けてをり

倉橋神社から音羽山を
昨日は桜井市の市民団体の主催による第50回 鎮守の森を観に行こうかいに参加した。

今回は「桜井から鳥見(とみ)山周遊へ」ということで前半は古社・等彌(とみ)神社宮司さん、後半は忍阪地区区長さんの案内で、神武が大和平定したあと初めて行われた大嘗祭の聖跡とされる鳥見山の周りを時計の反対まわりに一周しながら、山裾部分はすべて古墳群といわれる各集落の氏神さんをめぐり、倉橋、忍阪(おっさか)を経て隠国(こもりく)のとば口朝倉までという古代万葉巡りのコースである。
鳥見山は先日行った安倍文殊院の東の方向にあり、まず最初に立ち寄った若桜神社西座は東北の大将に任じられた安倍氏祖神を祭神とされているそうで、ここにも2,3年前ほどに現安倍総理がお詣りしたということだ。
朝8時半から午後5時までという長時間、途中下居(おりい)神社への急坂にあえいだりするシーンもあったが、山をくだったら倉橋で音羽(おとば)山が真向かいに見えて元気をもらったり、弁当を食べて元気を回復したあと、現在唯一入山が許されている天皇(崇峻)墓とされる天王山古墳の玄室に探検気分で潜ったり、忍阪の里では最古の石仏・薬師三尊仏さんに出会ってほっこりしたり、鏡王女の墓で額田姉妹を偲んだり、荒れる春嵐などすっかり忘れてしまうほど夢中で歩いた一日だった。

写真は下居神社から下ってきて倉橋神社から。山は正面が高さ851メートルの音羽山、談山神社があるところである。右にわずかに山裾の見えるのが多武峰北端で、舒明天皇「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも」(万葉集巻8−1511)で知られる小倉山であるという説あり。
犬養「万葉の旅(上)」(平凡社ライブラリー)の36ページにある「倉椅(くらはし)山」とは音羽山という説がある。この山にはさらに仁徳帝時代の悲恋話もあって調べれば調べるほど古代への思いを深くしてゆく。