腐らずに

虫逐うて世間話の団扇かな
相槌の団扇二ふり三ふりして

団扇は風を送るためだけにあるのではない。

相づちを打つときの小道具としても、これ以上のものはないとも言える。
宮滝の象山のとある集落で、数人の主婦が一軒の車庫で井戸端会議している。
みんな手に手に団扇を持って愉しそうにしているので声を掛けてみたら、いつもより遅い移動スーパーを待ちながらの世間話だそうである。
山の水が豊富で困らないこと、稲の穂が出るのは日当たりがこの地区では遅いこと、などなど暮らしの一端などを気さくに聞くことができた。山の暮らしをちっとも不便に感じない屈託のなさがこの集落の空気を支配している。

昨日の句会には、

屯して移動スーパー待つ団扇

いくらか詠めたかなと思ったが、一票も入らず。腐らずに何度でも詠んでやるぞ。

食欲旺盛

端山にも名ある吉野の今日の秋

今日から秋である。

と言っても、実感は全くないのであるが、台風のもたらした偶然なのかどうか今日はいつもより五度以上も低い。
吉野吟行はおかげでドタキャンもなく、無事に終了。
先月は猛暑の中、少々歩くコースだったので恨み声も聞かれたが、今日は全くそういう声はなし。
むしろ、毎日の暑さを乗り切って夏負け知らずの面々。昼食の炊き込み御飯もぺろりと平らげ、お代わりするご婦人のたくましいこと。
こうでなくては俳句は続けられない。
年長の方々のエネルギーに舌を巻いた一日であった。

清淨

萼の底水輪の洗ふ白睡蓮

ひとつさきがけて咲いている。

薄濁りの水に半ば埋もれて、いまにも溺れそうながら開いているのが、真っ白な睡蓮だ。
汚れた泥水に清淨な花が咲くことで知られる蓮は有名だが、睡蓮だって負けてはいない。
浮き葉が日を返していると。そこにも咲いているような錯覚を覚えるが、咲いているのはひとつだけ。
貴重な初睡蓮にしばらく見とれた。

夏一色

百合の木の王冠めける花立つる
朴の花透けてうごめくものの影

初めて見た。

朴よりは幾分小さいが立派な葉を茂らせており、その葉陰を縫うように花をつけている。
朴の花と同じく、見上げなければならないが、ポットのような花弁に黄金色の横縞一本巡らせてなかなか気品がある花だ。
桐、朴の木も終末というかんじで春はとっくに過ぎ去った感を強くした。
まほろば句会は30度近い馬見丘陵で、若葉風にいやされる夏一色という風情。

地味に

芽柳の枝ふれあうて風誘ふ
遠目にもあをむ一本柳かな

芽柳を手にとって見ると、すでに花芽をつけているのに驚く。

柳の花とはイメージがないが、考えてみると、植物である以上たとえ目立たなくても生殖のための器官があるのは当然であろう。
だが、NHKのチコちゃんではないが、「ぼーーっと」生きてると柳にもそんなことがあることさえすっかり頭の外にあるものだ。今度見かけたら、どんな風に咲くものなのか、とくと観察してやろうと思う。

広い路地

軒瓦連なる路地の丁子かな

どの家も立派な軒瓦である。

家並みが統一されて、狭い通りに向き合うように軒を並べている。
路地とは言え、電線が地中に埋められているせいか狭くは感じない。
昔商家だった家には駒繋ぎの金輪が錆びたまま残され、それを見ただけで時間は百年より昔にワープしてしまいそうな感覚を覚える。
屋根からの日射しが高くなって、路地に日が当たる時間が伸びてくると、軒先に置いた鉢物が目が覚めたように生き生きとしたようで、沈丁花もようようと開き始めたようである。香りはまだ浅いが、そのうち路地いっぱいに甘い香りが立ちこめてくると、春本番である。

つらつらと

人寄せて止まぬ椿の大樹かな

こういうのをつらつら椿というのだろうか。

五メートルはあろうかという椿が、日当たりの良さもあってか、上枝と言わず下枝までびっしりと花をつけている。箒の掃き目も新しい根元の地面には真っ赤な花が散りはじめているが、まだまだ咲き続ける勢いを感じる。
山茶花の花期も長いが、椿もこうしてかつ開きかつ散りながら春のど真ん中を進んでいるのだった。
ここを通る吟行子はみな感心して見上げてるのだが、当日はこの光景を詠んだものは少なかった。
小子もこの光景を前に二、三十分腕を組んでいたが、いまだにうまく詠めないでいる。キーワードは今書いた数行の中にあるのだが、うまく言葉として醸成されてこないのだ。