惰眠

亀鳴くやシアン欠けたるキャノンの絵

やっぱりプリンターが故障で動かなくなった。

ご丁寧にも「修理に出してください」というメッセージを吐いて、ウンともスンとも言わなくなった。
先月だったか、やはりインクを全交換して騙し騙し使ってきたが、今日の二枚目になって突然止まったのだ。
インターネットの時代とはいえ、やはりプリンターがないと不便なので、やむを得ず家電ショップにかけこむ。
先週は、洗濯機がこれまた突然の水漏れだ。図体がでかすぎて筋力の落ちた老身にはひっくり返して調べることもままならない。
10年くらい使ってきたので、修理に出したところでこの先どうなるかは見えているので、買い換えとなった。掃除機、電子レンジ、この一年の間につぎつぎとダウンしていたので、もうしばらくはないかと油断していたところの物入りとなった。
本当にもうしばらくはないのだろうか。

カラープリンターというのは、シアン、イェロー、マゼンタ、どの色が欠けても用紙にはこの世のものとも思えない、異様な世界が出現する。
犬などは色を識別できぬと聞くし、猫は猫でド近眼であるらしい。
それを聴覚、嗅覚などで補うために、人間では想像もつかないレベルに発達しているらしい。
もしかすれば、光りの波長を幅広く識別して、その中間的な色まで識別できる能力を取りそろえた生き物というのは、人間だけかも知れない。
そう考えると、いかれたプリンターに印刷された異様な世界というのは、ある種の動物にとっては正常なことで、ひとり騒いでる人間を尻目に、春の惰眠に耽っているのかも。

見渡せば

明治橋昭和橋へと花の屑

それぞれ架けられた時代の名前だろう。

あとで完成した昭和橋が国道として交通量も多いのに対し、明治橋は100年前にあった先輩なのだが今は県道として立場が逆転している。
桜のころは、川面が盆地中の落花で覆い尽くされるが、いま両橋のあいだの河原、土手は遠目には菜の花だが、実際は西洋芥子菜が咲き誇っていて黄色一色である。
しかし、これもやがて夏となると、また別の渡来植物に席巻されて様相が一変する。
冬またすべて枯れ、春となればまた花屑、芥子菜へと繰り返される。
ダイナミックな変遷がごく身近なところで繰り返されてるのだ。

ある風景

朽舟の泥曇らせて蝌蚪走る

不思議なことだが、浄瑠璃寺の浄土池に小舟が沈んだままだ。

底が浅くて全没はしないが、池の水面近くに大きく張り出した楓が緑なしてくると、その陰にも隠れそうなくらいになる。
ちゃんと水を抜いて手入れをすればまだまだ使えそうな気がするのだが、なにかの行事のときはそうしているのだろうか。
過去にも何回か來ているが、小舟が沈みかけているのは記憶にない。
あのまま、朽ちていけば泥舟となり、池の生き物たちの格好の栖になるにちがいない。
琵琶湖畔なれば、係留したまま朽ちていく舟というのも絵になるとは思うのだが。

ボランティア頑張る

ブロークンなれどジョークの長閑なる

英語フリップを脇に客を待っている。

奈良の主立った名所ではボランティアガイドが大活躍している。
平城京、飛鳥、斑鳩など、事前に申し込めばそれぞれの名所に詳しいガイドが半日くらいつきあってくれる仕組みがある。もし、グループで来られるなら、事前に調べておくのもおすすめだ。

井戸端談義

鶯のそこに來てゐる立話

毎朝の光景。

お向かい三軒のママ友たちが一時間以上も立ち話している。
今日は西風に乗って、八幡さんの杜の鶯がいちだんと大きく聞こえる日だが、それは耳に入ってないらしい。

あちこち招致騒ぎ

リニア招致くすぶってゐて山笑ふ

生駒の山々が萌えている。

鞍部にある暗峠もさすがに萌黄色がまさって、いつもよりよほど明るく見える。
聞くところによると、生駒山はかつて全山どこでも松茸が採れたそうだが、その後の松枯れのため楢や櫟にとって代わられた。が、やがて薪からガスの時代になると手入れもされず大きくなりすぎて、今度は楢枯れの浸食で姿を消すのも時間の問題だという。
そうなると、次は青木などの低い照葉樹の出番となって、今とはまたまったく異なった様相を見せるらしい。
わずか100年ほどのあいだに目まぐるしく植生が変わるとは驚きだが、ここ2、30年のうちにリニアが貫くかも知れず、太鼓から聖地として崇められてきたお山も騒々しいことだ。
騒がしいと言えば、今さら万博だの、賭博場など、都構想など、よそからは冷たい目で見られていることに気づかないのだろうか。

真っ直ぐに育つ

遠足の子らの会釈をもらひけり

一団の行儀のいい学校、そうでもないかなと思う学校。

よく言えば、学校のカラーというものが出るのも遠足、修学旅行である。
集合写真に並ばされるときの時間にもそれが現れる。
さっさと列について、さっさと次のクラスに交替していくのを発見すると、好感がもてる。
待っている列のそばを抜けようと思ったら、列の子らから元気な声を掛けてもらった。
不意のことなので驚いたが、こちらも負けず挨拶を返すことができてほっとするものを感じた。
どこの学校かは知らないが、真っ直ぐに育っている環境に思いをいたすのである。