立冬の桜

冬咲いて子福桜と申しけり

冬桜か、十月桜か。

近寄ると子福桜の札がある。
1つの花に複数の雌しべをつけ複数の実をつける。子宝に恵まれるという意味で子福桜という名がついたそうだ。
春と秋の二回咲くと書いてあるが、実際には冬の間ずっとちらほら咲いて冬桜といってもいい。
おりしも今日は立冬。暦のうえだけではなく鍋物を恋する季感も冬そのものである。

空気を包む

朴落葉反りて餅菓子くるまんか

一面に朴の葉が落ちている。

どれも表側に反り返り、葉の裏の葉脈をくっきりと浮かばせていて、それはまるで何かをくるんでいるようである。
朴の落ち葉というのは不思議なもので、その厚みゆえか、重さゆえか、簡単には風に飛ばされず木の下に折り重なるように積もることが多い。
朴葉にくるまれた餅菓子のようなものがそこに堆く積んであるかのような気がしたのだ。

盆地の盆地

日時計の影のやはらめ冬に入る

フライイングだが、まさに今日などは冬の朝。

朝の気温は10度を切ってぴんと張り詰めた張りつめた空気が漂う。
昼間は気温が上がるからとシャツにダウンベストだけで出かけたら、思いのほかに寒くて失敗したと思った。
それでなくとも盆地より宇陀は3度ほど低温なのに迂闊なことだった。
今日は宇陀水分神社吟行の日。
菊鉢を見、八つ手の花を見、秋冬混交の句材満載の日であった。
今年の立冬は3日後の11月8日ということだが、今週はもう冬だと思ってよさそうだ。

冬の到来

あすなろの籬づたひの笹子かな

初笹鳴きというのだろうか。

やっと暑い夏が終わったばかりというのに、早々と律儀に鶯が低地に降りてきたようだ。
本格的な冬鳥の季節にはいささか早いこの時期の一番乗りとなった。
古墳と公園の花の広場を隔てる垣根が背の高いヒバで、冬になるといろんな鳥がひそむようにして楽しませてくれる。
垣根の密度が高いので簡単には姿を見つけられないが、少しずつ移動している模様は声の移動で知るしかない。そう、この鳥は簡単には姿をみせてくれない鳥で、たとえ姿を現しても地味な色合いで背景に溶け込むので見分けが難しいのだ。
本物の鶯色とはほとんど灰色と言っていいくらいで、日に当たる角度によってかろうじて緑じみたように見えるだけだ。
来春2月末くらいに初音が聞けるまでしばらくは笹鳴きの季節である。
鶯だって、春の到来が待ち遠しいのに違いない。明日こそ、あしたこそ、と笹鳴くのである。

一足早い冬の到来である、

花籠

ちりぢりに通夜客別れ冴返る
料峭や通夜席甘き花の籠

まほろば句会の選者が亡くなられた。

この一二年めっきり足腰が弱られたが、直前まで元気に投句されて、最後は入院先で九十三年の生涯を閉じられた。
初めて句会というものに参加したのは六年前、都度眼前の季題のとらえ方など丁寧にやさしくご指導いただいたことが懐かしい。
この「料峭」という言葉を教えてくださったのも先生で、寒の戻りが厳しかった今日の風に似合う言葉であろう。
ホールの中は暖房もよく効いて花籠の百合やカトレアなど甘い香りが会場いっぱいに広がっていたが、外との気温差は大きく通夜の儀を終えても誰も語ろうとせずそれぞれ帰途についた。

遠山ありて

ぬきんでて尖る山あり雪の山

案の定東山中の雪は解けたようだ。

かわって奥の山の白さが増してきたようだ。
とりわけ大峯の山々、そして独立峰の高見山が見事である。
明日からは春だというのに、雪山の雪山らしく見えるのがこれからだというのは不思議なものだ。

春近し

補助輪はもういらないよ春よ来い

最近は補助輪を使わないほうが早いといわれる。

あらかじめペダルを外してしまって、両足で地面を蹴りながらバランスよく前へ進むことから始めるそうだ。
まずはバランスをうまくとることからスタートさせるというわけだ。これに慣れたら再びペダルを取り付け、そしてハンドル、ブレーキと徐々に慣れさせてゆく。
今日は土曜日とあって公園には家族連れが多く、そのなかにヘルメットがよく似合う、真新しいペダル無し自転車にまたがった女の子が両親を従えてすたすた進んでいるのをたまたま見つけた。あの様子ではつぎのステップに進めそうである。
そうなると、この春は自立して乗れる日も近いのではないか。
這えば立て、立てば歩めやじゃないが、親御さんも日々の成長が楽しみでしょうがないであろう。

今日は気温が上がって三月の陽気だという。そう言えば明日は節分。明後日はもう立春である。
「春隣」「待春」などの季題詠むひまもなく春になってしまいそうである。