水澄むやワイヤと板の橋揺れて
「水澄む」という季語は実に感覚的である。
秋は殊の外水が澄むから生まれたとされるが、本当だろうか。秋は空気が澄むことが多いからうまれた連想に過ぎないのではないか。この題が出されるたび、いつもこのことを感じる。
水が澄んでいるところは普通年がら年中澄んでいるものであり、そうでなければ雪解けや雨で流れ込む川や池、湖などは晴れ続きで濁ってないという意味しかもたないはずである。現に我が町を流れる大和川など、上流からプラスチックゴミなどが流れ込み、とても澄んでいるという気分には遠いものである。
生まれたばかりの水が滴る源流、伏流水が長い雌伏をへて地上に顔を出した湧水、水が生まれてまだ人の手も人工的なものにも毒されてない流れなど、これらはまがいもなく澄んだ水であり、しかも一年を通して変わらない澄みようである。
花鳥諷詠という虚子を中心とする季題の本意中心に詠む方法では、こういう感覚的な季題を詠むのは得意ではない。無理にこだわると、先に述べたようないつも澄んでいて美しい景色しか描けない限定した使い方に陥りやすくなる。そんな句はとてもつまらないものに映り、ちっとも上手いとは思えない。
だから、勇気を出して感覚的に詠めばいいと思うのである。