やっぱり長谷寺

玉のまま錆びて芍薬崩れざる
万緑の見渡すかぎり寺領とや

久しぶりに長谷寺吟行。

牡丹の時期の喧噪からは様変わりの静けさに包まれて、ゆっくり境内を散策することができた。
勿論、「花の御寺」といわれる長谷寺のこと、花の端境期とはいえ句材はいくらでもある。
芍薬も時季外れだが、名残の風情はそれはそれでまた詠み応えがあるというもの。
咲ききって、大きな種を見せるものが多いなか、開くことなく蕾のまま枯れてゆく姿、ある意味、冬薔薇に似通うような趣に心引かれてしばらく佇んでみて得たのが掲句である。

あの大舞台にたって「万緑」に挑戦するのも今日の目標で、いくつか詠んでみたもののひとつが寺領の句。
今日はいくつも詠むことができ、どれを投句するかと悩むほど、贅沢な一日であった。長谷寺、さまさまである。

緑の宝石

万緑やフォッサマグナの途方なく

糸魚川や信州アルプス方面などを旅行して、今立っているのはフォッサマグナ(大きな溝の意)の上だと聞いてもぴんとこない。

とてつもない規模の溝が本州の中央を横切っているのだというが、溝らしきものは全く見られないからだ。
というのも、溝の上を埋め尽くして余りある、北から、新潟焼山、妙高山、黒姫山、飯綱山、八ヶ岳、富士山、箱根、天城山という高い火山が列をなしているからである。それらは大きな溝が落ちこんだあとにマグマが上昇してできたものだという。
九州中部から四国の背骨を貫き、紀ノ川から吉野、伊勢、そして静岡に至る中央構造線が、3D地図などでもくっきり溝模様が分かるのとは対照的である。

フォッサマグナの北の端に縄文の時代から翡翠が採れ、加工技術も発達して各地に流通したことはよく知られている。そのことも現地のフォッサマグナミュージアムに行けば詳しく知ることができるが、継体天皇が立って以降どうやら翡翠の需要は急激に衰退したようである。大陸や半島から最新の文物や人・技術、なかでも金属加工技術が流れ込んだのが理由だとされ、金の冠、腕輪などが権力の象徴となるいっぽうで、それまでのシャーマニズムの象徴でもある勾玉の魔力が失せたと云うことかもしれない。

五感なくとも

万緑や耳は獣におのずから

定例の句会に先だって宇陀の棚田に立ってみた。

宇陀・玉立(とうだち)の棚田

水の音、風の音、そして鳥の声。
棚田の奥には通称「大和富士」こと「山」の文字の形をした「額井岳」が見える。水はこの山からの引き水だ。
山の水には蛍が生息し、この水路伝いに時鳥が行き来する、かけがえのない環境。どこを向いても山に囲まれて、緑、緑、また緑の世界だ。
目を閉じて、全身耳になったつもりで外界の音に全神経を澄ますと、原始の人間になったような不思議な感覚に襲われるのだった。

視覚、聴覚さえあれば触角、嗅覚、味覚はなくとも人は自然に帰れるかもしれない。

マイナスイオン

水分りの奥社はつかの河鹿かな
十尋の滝まっしぐら岩洗ふ
万緑や千年杉の神さびて

東吉野村の白馬水分神社奥に「投石(なげし)の滝」がある。

東吉野村・投石の滝

高さはおよそ20メートル弱といったところか。すぐそばまで行けるので、滝口から一気に滝壺に落ちてくるさまをあおぎみることができる。滝壺には樹齢千年の神杉が周囲の青葉若葉をしたがえてそびえている。
滝壺から流れる清流のどこかでは、河鹿がいるらしく鳥の囀りに混じってかすかにコロコロと鳴くのが聞こえてくる。

あふれるマイナスイオンを胸一杯吸い込んだせいか、頭もすっきり。これでいい句が授かれば言うことなしなんだが。