白い明かり

十年の庭に山茶花馴染みきし

半日陰がいいという。

それで、隣家との目隠しも兼ねて北東側に植えたのだが、以来かれこれ十年がたとうとしている。
人の丈ほどに伸びて当初の目論見どおり、外からの視線を遮るには十分な高さである。色は白を基調に淡い朱が混じり、足もとに散った花片ともども鬼門の辺りを少しく明るくしている。
これまで剪定を行わずにきたが、それなりに姿形は乱れていないし、しばらくはこのままでいいと思われる。

赤いトマト

さざんかのつぼみも色をますころに

蕾がほんのり色づいてきた。

今年の南天の実は色は悪いが悪いなりに赤くなっている。柊も満開を過ぎようとして甘い香りを放っている。
つづいて山茶花もいよいよ開く準備を終えたようで日に日に膨らみを増してきた。これよりは二月ほど咲いては散らし、咲いては散らしを繰り返して一画を明るくしてくれるだろう。
庭のミニトマトも最後を飾る粒が赤らんできた。これよりのちの粒は青いままで終わるだろう。
暖かい冬もあと少し、来週からは本格的な冬に戻るそうである。

隠り飛ぶ

山茶花にこもれる鳥の影動く

高さ8メートルくらいはありそうな山茶花。

ここは鳥がこもり飛んでいることが多い。花の蜜が目的のメジロや、シジュウカラなども姿を隠す目的に利用しているようだ。
大きな木だから、中にこもってしまうと気配はしてもどこにいるのか分からなくなる。ところが、今日たまたま日が傾いた時刻に発見したのだが、木を貫く影ができてそこに枝を移るかれらの動きもはっきりととらえることができたのだ。
この驚きを何とか句にしようと格闘するのだが、なかなかうまくいかないものだ。

朽ちるに任せ

山茶花の誰もとがめず散りゆける
山茶花の錆もふくめて愛でにけり

もう一か月以上になる。

いつ通ってもこの道は山茶花が散り敷いている。
上を見れば、大きな木に純白の花を誇っているのもあれば、盛りを過ぎて茶に変色してもなお頑張って散らないでいるものもある。
これが山茶花の咲きようなんだと思う。
散っても掃く必要はなく、このまま朽ちるに任せておくがいい。

足に優しい道

山茶花の名なき墳墓に散るがまま

山茶花の白が好ましい。

もう何日咲き続けているだろうか。
平坦な道ばかり歩いてもつまらないので、墳墓は必ず登るようにしている。何より眺めがいい。

また、足の裏にも優しいのだ。
今日の距離は7キロほどか。吟行をかねての散歩だから時間はかかる。

散りようが命

掃かぬまま山茶花風の運ぶなし

山茶花が咲き始めたようだ。

とくに香りが強いわけでもなく、木もあまり大きくは伸びないせいか、椿に比べれば地味とは言えるが、何と言ってもこの花の特徴は、長い期間にわたって咲いては散ってを繰り返すことにある。同時に、株の根元に散り敷いた花びらさえも愛でることができる。
そういう意味では、散ったからと言ってすぐに掃かないことも肝要で、散り積もるまでしばらく放置しておくのがいい。
強風が吹かないかぎり飛散することもないので、お隣への迷惑もあまり心配ないかもしれない。

花は花として、散った花びらの風情がさらにいい。
二年前に大覚寺の庭で見た山茶花の散り様は、今もあざやかに思い出すことができる。

旧嵯峨御所大覚寺門跡

苔庭の落葉掃くより弾きたる
山茶花の散るを意匠に苔の庭
水鳥の広く遊べる庭湖かな
大池の北はよく溶け枯蓮
枯蓮を撮って白雲映りこむ
名勝の名のみとどめて滝涸るる

想像以上に立派なお寺に圧倒された。

さすが門跡寺院の代表とされるだけの気品があり、短時間に見て歩くにはもったいなさすぎる。また、大沢池の広さはどうだ。さまざまな冬鳥も到来して、留鳥ともどもあまたいるのに、ちっとも狭さを感じさせない。あと千羽くらい飛来したとしても特別多いようには感じないのではないだろうか。

そのうえ、名古曾滝跡脇にある歌碑を見てはたちどころに百人一首55番藤原公任の歌と教えてくれる友もいて、なんともゴージャスな旅だ。