便箋

母の手痕の癖思ひ出す春の闇

遠い昔の話しになった。

たまにくる母の手紙は旧仮名遣い。いつも必要なことしか書かない。便箋一枚フルに使われたことはないほど短い。それでも白紙の便箋がかならず一枚ついていた。添え紙は返信のためにとか、本当はもっと書きたいという気持ちを表す意味とか、内容が透けないようにとかの意味があるそうだが、昔の人はみなそうしていたものだ。
そんな古い話を思い出しながら、夜の時が流れてゆく。

特権

脈絡なき夢に覚めては春の闇

最近見る夢はほとんど脈絡なく、しかもふだん思いもしない人やことが現れたりする。

浅い眠りということだろうが、やはり昼間の活動量が少なすぎるのか。
今後老いて体がさらに言うことをきかなくなると、こんなことが毎日起こるのであろうか。
さいわいなことは、夜中に夢を見たとしてもまたすぐに眠りに落ちて、朝目が覚めたらまったく覚えてないことである。
聞くところによると、夜中に一度でも尿意に目が覚めたらそれは頻尿と言うことらしい。
まるまる八時間目が覚めないで寝続けることなど若者の特権でもはや望めないことだろうか。

春満月

神将のししむら踏める春の闇

ものうい春でもある。

まして今日は平成最後の満月だというのに、こう雲厚くては期待できない。
月が出れば「春の月」一句詠みたいところだが。

雲間にも出よ望なる春の月

れんげうの寺

在五像厨子開かるる春の闇

昨日の続き。不退寺にて。

重文の聖観音像はじめ文化財が多いためか、堂内は扉一枚の出入りで暗い。
そのうす暗いなかで住職自らが解説する声が大きく響く。
在五朝臣制作とされる本尊の聖観音像、在五朝臣画像とも厨子に納められているが、画像の方は春と秋だけ特別公開となっており幸運にも訪問したときはご開扉されていた。ただ堂内全体がうす暗いうえに大きくはない厨子の中はさらにうすぼんやりと定かには見えないのである。
雰囲気としては筆をかざして思案中のようであるようにも見えるのだが。

いただいたパンフレットにある通り、今はちょうど本堂を取り囲むようにレンギョウが盛りである。
堂縁に腰掛けて庭に迎えば、大きな庇がレンギョウの明るい黄色に照り映えるように明るい。

れんげうの花の明りの堂庇

故郷の変わりよう

救援の手の及ばざる春の闇

まるで陸の孤島だ。

道路、鉄道が縦横に走って本来はアクセスに不自由しないところだが、それが断ち切られたときの脆さを見た。
圧倒的に足りない避難所、水・食料。
車上での避難生活にも限度があろう。

このたびの震災の復旧もまた想像をはるかにこえる時間が予想される。
東日本震災から五年。列島は地震の活動期に入ったと言われるが、この数年のうちにまた大きな地震が発生するのだろうか。

熊本出身のアナウンサーの、ときに胸をつまらせたようなアナウンスに打たれた夜だった。