大和茶処

茶摘唄今は昔の紅襷

今日は八十八夜。

テレビニュースでは大和茶の初摘みの行事模様が流れたが、茜襷のお姉さんたちはいかにも高校生風情のにわか茶乙女さん。カメラの前の手つきもまるでさまにはならない。
手もみ茶の伝統を守ろうとする若手がいる一方で、茶処の高齢化は待ったなしである。

電線上の声楽家

いりあひの杜の鶯ひとしきり

またまた「いりあひ」である。

夕刊を取りに出るとあの「帰りましょう」放送。
ゴーホームどころか間もなく夕暮れだというのに、鎮守の森からは鶯の声が絶えない。もう「老鶯」といっていいくらいの鳴きっぷりでこの先が楽しみである。
最近は、名前からはほど遠く山中にまで進出しているという「イソヒヨドリ」も電線などによくとまっていて、毎日実に佳い声を聞かせてくれる。鶯が鳴けば競うようにイソヒヨドリも鳴く。ともに素晴らしい声楽家である。

太公望

釣堀の中り遠のき春の昼

釣り好きは概して気短である。

あるいはマメな性格といっていいだろう。気長な人に釣が好きだとか、うまいという人は聞いたことがない。
何故なら、釣というのは状況に応じて手を替え品を替えしなければなかなか釣れるものではないからだ。当日の魚のご機嫌に合わせて、餌を変えたり、仕掛けを替えたり、考えられる手はすべて打たないといけない。
これが、気長な人の場合、いったん仕掛けを沈めたらずっうとそのままただ待つだけのことが多い。浮子がびくともしなくとも、ただひたすら待つのである。
釣りのうまい人というのは、駄目だと思ったらすぐに仕掛けをあげて別のポイントを探ったり、深さを調節したり、とにかく一投ごとに何かを変えて様子を探っているのである。
だから集中力だってそんなに何時間ももつわけはない。
ましてや陽がすっかり昇り中りでも遠のいたりすれば、このうららかな春日和りにさそわれて、釣果などどうでもよくなりはしないだろうか。

里山の春

蝌蚪生れて谷津の主役になりにけり

谷津というのは丘陵が削られて谷状になったところで、里山を形成する典型的な環境と言える。

谷戸、谷地とも呼ばれるが、関西方面ではあまり聞かれない用語である。
関東ならば各所にこの谷津が見られ、地形上水も集まりやすいところから田や畑として利用されることが多い。つまり、谷津と水とは切り離しては考えられず、豊かな環境が形成されることから、近年昔ながらの環境が残されているとしてクローズアップされることが多い。
春になると小川の水温も上がり、ちょろちょろ流れる水面は長くなった太陽の光を受けてキラキラ光っている。冬の間主役不在だった谷津も、澱みを見ると小さなオタマジャクシが群れをなして賑やかになってきたようだ。

もう帰りましょう

入相の鐘や雲雀の高みつつ

もう夕方なのに相変わらず雲雀が頭上で賑やかだ。

午後6時になって自治体が流す子供向けの「もう帰りましょう」放送が聞こえても、まだふらふらと南から北へ流れていくように飛んでいる。やがて3軒くらい隣の、今は家庭菜園になっている空き地に着陸したのを目撃。朝にも同様の光景を見ているので、どうやらその畑はお気に入りの場所のようだ。
それにしても、雲雀が降りるさまは「落雲雀」というくらい独特で、いつ見ても目を楽しませてくれる。まるで模型飛行機がゴムがすっかり巻き戻されてふらふら着陸するように、羽根を広げたまま左右にゆっくりバランスを取るようにして降りてくる。そして、最後の10メートルというのはあっという間に落下という風情だ。

赤い灯青い灯

赤灯や澪をゆきかふ船朧

最近は黄砂がよく飛ぶので霞との区別がつかなくなってきた。

今日はいつもより霞の度合いが強く、若草山の赤茶けた姿が辛うじて遠望できる。車のフロントや屋根にはうっすら土埃のようなものが積もっているので、霞ではなく黄砂だと思われる。
霞というのは俳句では春のもので、これがあたりを覆うようだと「朧」というが、最近では黄砂が飛んでいたって朧のように見える。難しく考えないで、雰囲気がもうろうとした感じさえ出ていれば「朧」としても問題はあるまい。
掲句は、横浜湾あたり、黄色い街路灯ににじんだレインボーブリッジの下を今しも大きな外国船がくぐろうとしている光景を想像してみた。

身投げする

蛍烏賊ヘッドランプの灯も揺れて
大潮の渚満ち来る蛍烏賊
大潮の月なき夜の蛍烏賊
蛍烏賊すくう渚の月もなく
蛍烏賊渚ですくう闇夜かな

蛍烏賊の旬は5月連休までだという。

そのころに深みから浅瀬にやってきて産卵する頃が一番うまい。
これを、魚津などでは一般の人でもタモ網ですくうこともできるそうだ。
浅瀬にやってくるとき、なかには波打ち際にまで身投げしてしまうのがあって、これを網ですくうのである。タイミングとしては大潮の満潮時で、月明かりのないときである。
必ずしも毎回採れるわけではないそうだが、あの蛍烏賊の活きのいいのが自前で採れ、その場で食うことができるというのは、地元ならばこその遊びであろう。
都会では生の活きのいいのを食おうとすると、寿司屋,料亭とか一部の高級料理店に行くしかない。未明に獲った烏賊はストレスのため一日休ませて、翌朝のトラックで空気詰めにして築地などに運ばれる。したがって、今晩食ったものは昨日の朝に浜に上がったものだ。
そういう烏賊は一般家庭ではなかなか手に入らないので、本物の味を楽しむにはやはり現地に行くしかない。