双葉へ

殻割って木の実身を剥ぐ雨水かな

団栗の殻が破れてきた。

殻を割って青々した身がむきだしになってきたのが目立つようになってきた。自ら殻を割るくらいだから、鹿苑に持っていきたいほどおびただしい転がっていたのが、いっせいに活動し始め、いよいよ動き出そうということか。
今日のような柔らかい春の雨にもうながされ、やがて芽、根を出して自分の場所を確保する戦いが始まるのだ。来月末頃には双葉が出揃っているかもしれない。とくに、公園の樹木でも椎の木の実に分がありそうだ。というのは、椎の木の根元は落葉が積もっていることが多く、木の実の発芽、成長には適しているからだ。
枝の鳥を探しながら歩くのももちろん悪くないが、これからは足許にも注意しながら行くとしよう。

ドクターヘリ

春北風や隊士見送る医療ヘリ
春塵をまいてドクターヘリ発てり

取り巻いた人たちにも、ものものしい雰囲気が漂っている。

何かと近づけば、初めて見るドクターヘリだ。
運動施設のフィールドに駐機していて、今しも救急患者を載せるところだった。
もしかすれば運動中に人事不省に陥り、医療救急車では対処しきれなくなったのだろうか。
県内の広い領域が山間地帯で、ドクターヘリによる救急救命体制の確立が急がれており、最近ようやく自前のヘリを稼働させたばかりだ。比較的恵まれた盆地中央でも、搬送をヘリに託すというのはよほど重篤な患者なのかもしれない。
このような緊急を要する重篤患者の救急医療の核となるのは、北、中、南に三つある地域医療センターのほか、県立医大など。
救急ヘリというのは、ヘリとそれに乗る医療スタッフのイメージが強いが、見ているとどうやらそれは大きな間違いで、現場においてもヘリをサポートする人間が必要なのだ。たとえば、風向きを教える吹き流しを掲げたり、離着陸の際の警備とか、周囲を見渡して全体の指示を出す人とか。
そして、いよいよ離陸となってエンジン音が高まるとともに、機体がふわりと浮く。すると、その瞬間、野次馬として遠巻きにしていた人々にも一斉に落葉や土埃が降りかかってくる。向かった方向からすると橿原の県立医大へと進路をとっているのかもしれない。そこでもまた、関係者が体制を敷いて待ち受けているに違いない。
緊迫した救急医療現場の一場面に遭遇し、命一つをつなぎ止めるための多くの貢献を思わずにはいられない。

聞きつける

道中の一人に見えて初雲雀
空耳と疑ぐるほどの初雲雀

歩くたびに発見がある。

先日粒が開き始めた万作を見たが、これがすっかり開いてちりぢりの糸にほどけている。
また、珍しく日の暈がかかったお日様を眺めていたら、どこかで雲雀が鳴いている。もちろん今年初めての雲雀だ。
眼球の焦点合わせが鈍い僕には発見できなかったが、立ち話の相手がしっかり捕捉したようだ。
ただ、鳴いた時間はほんのわずかですぐに聞こえなかった。
最初の一声をせっかく聞きつけたのに残念なことである。

一つの時代の終わりか

腹出しの子は昔日か鳥雲に

巨星墜つ。

現代俳句の旗手金子兜太が亡くなったという。
死ぬまで俳句界を率いて巨大な足跡を残してきた人だが、代表句の一つに、

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

がある。
野山を走り回る田舎の子の逞しさを謳い、曼珠沙華の生命力に自分を重ねた句と言われるが、これなどは誰もが理解できる素朴な部類に入るほうで、なかには難解な句も多くてそれが私には印象に強く残る人である。
先々週だったか、やはり俳人の大峯あきらも亡くなり、俳壇も寂しいかぎりだが、俳句人口の裾野を広げること、若い才能の台頭が待たれている。

雪間に見つける

湯守のみ知る谷筋の蕗の薹

雪の宿の庭など、雪解けを待ちかねたかのようにあちこち顔を出しているのを見ることがある。

新潟でもそうだったし、飛騨の奥でもそうだった。
雪間に水芭蕉は4月から5月頃の光景だが、雪間の蕗の薹は3月の景色である。
寒地でそういう具合だから、雪のないところでは今月下旬ともなれば顔をだす時分だ。
毎年そうなんだが、蕗の薹ってけっこう見逃すことが多く、たいがいが薹がたってしまって食べ頃を逃したころに気づくことが多い。
今年は人の多い散歩道を避けて、新しいルートを開拓すれば天麩羅にするくらいの数を拾えるかもしれない。

水無田

菖蒲田の畦もろともに焼かれけり

菖蒲園の株がみな真っ黒だ。

雑草もろとも焼いて、発芽をうながすのであろうか。
今年も四月に入れば花菖蒲の芽をくっきりと認めることができそうである。
今は水が抜かれているが、芽が伸びて菖蒲田らしくなるのはいつのことであろうか。