体感温度落差

お旅所の演技納めて焚火かな

今日はおん祭お渡り式の日。

若宮おん祭は12世紀に関白藤原忠通が長雨による洪水、飢饉、疫病蔓延がつづく世の沈静を願って春日大社摂社の祭神・若宮の力を得ようとはじめた祭だそうである。それ以後大和一国国を挙げて盛大に行われ、八百七十余年つづく。
家の中にいると比較的暖かい日だが、外は寒風が強く体感温度の落差が激しい。
まして、メイン会場は大社の参道になるので、大きな松の木にさえぎられて日が届かず、行列を待つだけで凍えてしまいそうだ。
見物客は着ぶくれて見ているからまだましだ。昔ながらの衣装の行列参加者は見るからに寒そうである。
そうして、行列の終着地点・御旅所のまん幕の裏側には、出番を待つ、あるいは演技が終わったものたちのために大焚き火が用意されている。直径十メートルはあろうかという深い穴に、これまた太い切株などが何本も焚かれて、その周りを男たちがまんぢりともせずに囲むのだ。その輪の外でも大焚き火は十分に暖かくご利益をさずかることができる。

インフルが流行っているという。今日はやはり炬燵を決め込んでこもっているほうがよさそうである。

正月準備スタート

花卉商の三輪に奉ずる松迎

12月13日は「事始め」と言うそうである。

祇園の舞妓芸妓が恒例の挨拶をする光景がニュースになるのもこの日である。
今や「事始め」と聞くと正月のものではないかと思ってしまうが、実は正月を迎えるための準備をはじめる日のことである。
煤払い、歳暮もこの日からとされていて古い都の昔からの習慣である。
ここ奈良では、この日になると大神神社の二の鳥居前に立てられる一対の門松がニュースになる。県の花卉組合が奉納するものだが、高さ十メートル近い松を立てるにはクレーンの助けが必要で、完成するとそれはすばらしく立派なものだ。
これによって鳥居前の広場が一気に年の瀬のものになるのだ。
「松迎」とは門松用の松を切り出すことを言い、ホトトギス歳時記には上げられてないが「事始」の傍題として十分通じるものと思われる。

いっぽうで、ほだか亭の煤払いは年末、年も押し詰まってのことになりそうである。

眠れよい子よ

室咲いて嬰に和める医院かな

みんな月数を尋ねる。

一か月の嬰児が母親に抱かれてすやすや眠る。ときに笑顔を見せるのは、夢の中でもお母さんにあやされているのかもしれない。
病院で順番を待つ時間というのは何とも味気ないものだが、安らかに眠る赤子を見ていると、部屋中に何とも優しい和やかな気分が広がるのだった。

ほんまもんの鍋

闇鍋へぶつ切りの葱溢れしめ

冬葱が甘い季節。

ざくっと切れば涎のような粘液、ヌルがあふれてきて、これが冬に増えてきて、免疫細胞を活性化させるという。やはり葱の旬は冬なのだ。
東京に出て、青い部分を捨ててしまう葱をみて驚いたものだ。はじめの頃はどうしても白ネギに馴染めなかったが、いつしか虜になっていたのは冬の甘味のせいだろう。
それから、本当にうまい葱というのは、肉抜きのすき焼きとして食える。肉の代わりに麩を使うだけだ。肥えた土、無農薬、有機栽培に育てられた九条葱をいただいたときはその旨さに声を失うくらいだった。あんなにうまい葱は、店では絶対に手に入らない、名人の葱だ。
今でも毎日畑へ出られているだろうか。

仕立て

和裁鏝埋めもし妣の火鉢かな
人形の火鉢かき抱く暮らし展
客去りて燠きの盛りの火鉢かな
大き手と小さき手かざす火鉢かな

今日は思い出編である。

母は昔仕立ての内職をしていた。
少女時代からお針子として勤めていた母の、ひとさまの反物を預かって、洗い張りをしたり、縫ったり、鏝をあてたり、しつけ糸でまつったり、着物の仕立の一部始終を目にしていた。妹たちの正月の晴れ着なども母が縫った。はやりの兎の首巻きをしておさまっている子供の頃の写真はとっくにセピア色だ。
その頃、昭和30年代のはじめまでは暖房と言えば、炭団炬燵に火鉢くらい。
餅が焼けるまで、火鉢に寄せ合うように手をかざしたのも懐かしい。
間もなく母は病みがちになって、針をもつどころか家事までたいへんな時期があって、盥の洗濯など手伝ったこともある。皹やあかぎれに悩んだのもその頃の話だ。

メモ代わり

解かれずして古暦とはなりにけり

家にいくつカレンダーがあるだろうか。

その昔は、部屋や廊下などあちこちに掛けてあったものだが、最近では日と曜日の文字が大きく見えるカレンダーしか掛かっていないし、またそれだけでも十分である。
いただくカレンダーも昔に比べればずいぶん減ったが、それでもいくつかはとうとう日の目を見ないで一生を終えるものがある。
絵や写真の美しいもの、有名な人の手跡になるもの、いろいろ名作はあろうが、わが家ではカレンダーは予定を書き込むメモでもあるので、各日に余白がたっぷりあるのがいい。猫の姿態が描かれていればなおいい。

捨てたものじゃない

しぐるるや虹示現する峰の寺

目まぐるしい天気の変わりよう。

雨脚が遠のく頃合いを待って外へ出たら、脊山・信貴山をおおうように虹が立っている。
虹本番の夏でもめったに見られないほどの、太く、くっきりと輪郭もたしかなもので、しばらく車を発進させず見とれていた。
大和川まで降りてきて振り返ると、もうお山には虹の跡形もなく全体に日があたっているいつもの光景だった。
まことに時雨らしい時雨である。京都は時雨の名所だと言うが、なになに、初冬から何度もしぐれる奈良も捨てたものじゃない。