秋の空はなぜ高い

冷やかに間違ひ電話切られけり

明日朝はさらに冷えるという。

盆地の朝の涼しさは格別だ。秋冷を直に感じることができて、暑い暑いと言ってるうちにすぐに秋は過ぎてしまいそうである。
今見ている気象情報では、秋の雲の位置が高いのだという。つまり天高しとは雲高しのことでもあるのだ。

ところで、週末の台風の行方が気にかかる。
一番台風の影響を受けると思われる日曜日が例会の日に重なるのだ。今まではやだなあと思えばいつでも欠席できたが、幹事となると自分のことはともかく開催の可否も含めて責任を負わなければならないし。
無事に逸れて欲しいと願うばかりである。

あきらめた

風入れて虫の音入れて草の宿

いやあ、よく鳴いている。

一体何種類の虫がいるんだろうか。
ここ二、三日夜が涼しいので窓を開けて風を入れているのだが、今までエアコン入れて外界の音をシャッタウトしていたせいか、あまりの賑やかさで驚くばかりである。
インターネットで虫の名前を突き止めようとしても、あまりにも虫の種類が多く、かつ鈴虫、松虫のように分かりやすいのはともかく、みんなよく似ていてさっぱり特定ができない。
ともかく、特定することはあきらめて、虫浄土の世界に身を委ねるのがよさそうである。

無上の食べ物

早稲の香や迫田を奔る山の水

今でこそ全国的に有名だが、かつて熊野の丸山千枚田はひなびた山村であった。

バスは日に三便のみ、新宮と熊野の奥地・神川町を結ぶボンネットバスが、あえぐように風伝峠にたどり着いてそこで一服したあと、再び目的地へ向かう。
やがて目の前に千枚田の丸山が開けてきて、そこを大きく縫うようにしながら、ガタガタの道をバスは行くのだ。お盆休みくらいしか帰らないので、収穫が近くなった千枚田の風景は知らないが、青々とした稲田が一面広がっている光景は今でも思い出すことができる。
終点一つ手前の集落が父や母の郷で、南側に山を控え田も狭く畑だって石がごろごろしているような、それこそ寒村という言葉がぴったりの鄙びた村だったが、村の中央には南北朝時代の砦跡があって、それが南朝方の豪族の名を冠した神社となっているのだった。熊野川上流のこのあたり一帯は、南朝方に与して親王をお迎えして戦ったという気骨だけが残っているような空気もあったのだが、今や消えゆくのを待つと言うだけの限界集落となってしまっている。
夏は鮎、秋は山で採れた見たことのないような茸、それぞれに忘れられない味覚が体にしみついていて、今でもときどき鮎の甘露煮、鮎の出汁を使った素麺が無性に食いたくなる。これだけは全国のどこにも負けない無上の味だと信じているのだ。

瑞々し

ある晴れた九月の朝に蝶生まる

秋の蝶というと弱々しいのが季語の本意である。

が、今の時期でも羽化する蝶がいるのだ。
日課の水栓で水を汲もうとしたら、目の前でその朝羽化したばかりと見える揚羽蝶がゆっくり翅を動かしている。生まれたばかりだから翅や胴体は何の傷もなくみずみずしく映る。
しばらく見ていると、その頻度がちょっとずつ上がってくるのが分かる。もうすぐしたら飛びたとうという構えだ。
昼前に再びその場に行くと、もう揚羽蝶の姿はなく、羽化したさなぎの殻が残っているだけだった。

陰の子規忌

立待の宵を隣家の早仕舞

三連休のはずだが隣家が静かである。

昨日、今日と遊び疲れて早寝なのかもしれない。
明治35年9月19日、旧暦でいうとその日は8月17日で子規の命日であった。床に伏したまま月の出を待つことなく子規が逝った日である。つまり、子規忌とは9月19日を指すが、今年の9月15日は陰の子規忌であると言ってもいいかもしれない。
合掌。

色失えど金は金

十六夜の坂の下なる大仏殿

寧楽坂を降りてくると真っ先に大仏殿の大屋根が目に飛び込む。

深い松林のなかに、屋根の部分だけがぽっかり浮かぶように見えるのだ。
三笠山、春日山の影にあるから、十六夜の月が顔を出すのはさらに遅れて、その月が東大寺を照らす自分はそれなりの高きにあって、東大寺の地苑をいやが応にも明るく照らす。
銀色にかがやく大屋根の鴟尾も色こそ失えど輝きは銀に蒔けない。
昨日は無月だったので、今夜こそじっくり眺めてみたいものだ。

空気を読まない花

一日の始めの駅にカンナ咲く

さあ、これから出かけるぞと思っていると、目の前にカンナが飛び込んできた。

ホームから線路をはさんだ斜面に原色のオレンジ色の花が咲いている。
今日もまた暑くなるぞと覚悟する日差しに照らされて、その燃える色にますます暑さがつのってくるのだった。
カンナというのは、不要なほどに大きくて、残暑でうんざりしているときにも遠慮なく自己主張しているようで、周りの雰囲気にはそぐわない、いわば空気を読まないようなところがあって好きでは無いのだが、吟行に出かける朝などに見かけるとムチを入れてくれて自覚を持たされるような花なのである。