操舵手の見えて起重機冬に入る
校舎の姿が見えてきた。
クレーンのアームが回転しては傾き、資材を上階に運んでいる。
その動きは小さいが、確実に動いていることが分かる。
老朽化した校舎を建て替える工事だが、その期間生徒たちは不便な間借り生活を強いられている。
この分でいくと、竣工は来年間違いなしだろう。
地震もエアコンの心配もなく勉強に専念できる環境ができるまで、もうしばらくの辛抱だ。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
操舵手の見えて起重機冬に入る
校舎の姿が見えてきた。
クレーンのアームが回転しては傾き、資材を上階に運んでいる。
その動きは小さいが、確実に動いていることが分かる。
老朽化した校舎を建て替える工事だが、その期間生徒たちは不便な間借り生活を強いられている。
この分でいくと、竣工は来年間違いなしだろう。
地震もエアコンの心配もなく勉強に専念できる環境ができるまで、もうしばらくの辛抱だ。
狼像虚空に吼ゆる秋の声
今日は快晴。
家人を連れて再度深吉野へ。
一日違えば紅葉が全く違うと言うことを知った。
紅葉は曇りがちのほうがいいというのが結論。
順光はまだしも逆光は全然いけない。人間の目でも暗部がつぶれてしまって、ハイライトの部分しか見えなくなるのだ。
カメラになるとさらに顕著で、暗部を活かそうとすれば明部が飛ぶし、明部を活かせば暗部がシルエットになるだけ。風景写真として撮るときは曇りないしは順光に限るという結論を得た。
昨日書いた通り、昨日でもなく明日でもなく今日の紅葉。まさにその通りだった。
紅葉の素晴らしさは天気、空気の透明度、湿度、光線の具合などさまざまな要因に恵まれることが条件だったのだ。まさに運しだいというわけだ。
ニホンオオカミが日本で最後に目撃(捕獲)されたのが深吉野・東吉野村である。それを記念して村に狼像が建立されたが、意外に狼は小さかった。柴犬を一回りほど大きくしたくらいだろうか。
モデルとなったのは、捕獲された後英国人に売られてそれが今大英博物館所有となっている剥製だ。
その像の狼は、異国で故郷を偲んで遠吠えでもするかのように空に向かって咆哮しているのがしみじみと哀れをさそうのである。
深吉野に黄葉紅葉を疲れけり
今まで見たことのないような黄葉、紅葉。
さほど期待していたわけではないので、よけいに驚かされる。
夕べの雨に洗われた雑木の紅葉は鮮明さをよりまして、昨日でもなく明日でもなく、今日が盛りのピークのように思えた。
集落のすぐ前の山が燃えに燃えて、いかにも吉野の奥の秋である。
目をどこに転じても紅葉の連続で、句会場に辿り着いたときにはもうぐったりするほど。「花疲れ」という季語があるが、それなら「紅葉疲れ」という言葉だって許されるのではないか。
くちなしの白の真澄の狂ひ咲
秋の色が満ちた公園の生け垣に純白の花をつけている。
こくちなしの花だ。
葉は青々としたままだからよけいにその白さが際だつ。
花も狂い咲けば、ただ咲くことだけに専念するのだろうか、よこしまな色など見せずその純潔をさらに極めようとしているようだ。
今は雑木の紅葉がきれいだ。とりわけて、欅の黄葉が素晴らしかった。少しの風でもさらさら散ってをり、やがて分厚い落葉の絨毯になるのが目に見えるようだ。
平地のモミジは始まったばかりという感じで、あと一、二週間で燃えるように紅くなるものと思える。
今日は朝方は曇っていたが、午後からは晴れて暖かい小春日和となった。
藁塚の棒よりすでに傾ける
盆地を走ればまだ藁ぼっちを見ることがある。
藁にかわる便利なものがいろいろ開発されても、やはり稲藁でなくてはならないニーズもあるのだろう。
たとえば、霜除けの敷き藁などなど、わざわざ買わなくても自前で調達できるわけだし、なにより正月に欠かせない飾りもの、注連縄などである。
藁塚を組むほどではなくて、田に藁束を円錐形に広げて干している光景も少なからずある。
田仕舞いの煙が幾筋も流れる盆地は、いよいよ晩秋の色をふかめてゆく。
食み跡の乾くひまなき熟柿かな
毎日ちょっとずつつついているようだ。
すっかり熟した柿に小さな穴があいて、それがちょっとずつ広がっているのだ。
穴の大きさからすると、ヒヨドリ以下の大きさの鳥だろう。
今日はまた、そのあいたところに蜆蝶のように小さな蝶が二頭、長い間口吻を突っ込んだままだ。冬越しに供えようというのかいつまでも吸い続けている。
たとえ一個でも、柿の実が多くの命を養っているのだ。
山見ては木には及ばず紅葉狩
一目千本とは吉野の桜を見渡せることあるいは場所を言うが、他にも名乗るところもあるようだ。
まるで何々銀座というようなものだが、それでは全山もみぢというようなスケールの大きい場合は何というのだろうか。
考えてみれば桜もまさにそうだが、紅葉の景色を楽しんでいるとき、一木一枝こまかに観察し、それを手にとって愛でているかと言えばそうではなさそうだ。全体の紅葉のなかでも微妙に異なる色彩のあやに声を上げているのではあるまいか。
考えてみれば紅葉狩りとは妙なネーミングだ。葡萄狩り、林檎狩りのように現物を折り取って持ち帰るわけでもない。
語源はどうやら平安貴族が紅葉を求めて野山に出かけたことにあるという。太古から、野山に薬草や染め物の原料にあたる草木を狩り、あるいは鹿や猪を狩ってきた。そんな延長線上に紅葉の名所を訪れ宴を楽しむ紅葉狩りがあったのだ。宴の遊びを野外に求めていくことを広く「狩」と称してきたわけだ。
現代は紅葉の名所まで車でさっと行ける時代。酒宴を張ることなどとんと無縁な紅葉狩りの時代となった。
また、桜泥棒なる言葉はあるが紅葉泥棒とは聞かない。いくら酔っても紅葉の枝などゆめゆめ持ち帰ってはいけない。