虎刈り

青草の墳墓まあるく刈られけり

円墳の部分に草刈り機が入っている。

裾からはじめてエンジンを唸らせながら、周りをゆっくり刈り上げていくが、土埃の匂いに混じって夏草が強く匂いたってくる。
ちょっと虎刈り模様だが、半日ほどをかけて頂上まで上っていくのだろう。

自宅葬

南天の花にふれたる喪章かな

家人が不在の間に、蕾であった南天の萼はおおかた散ってしまって黄色い雄しべ雌しべだけになった。

散った花片はあまりにも小さくて軽いせいか、勢いよく掃くと四方に飛び散ってしまうので丁寧にゆっくりと箒を使う。それでも、全部ちり取りに掬うのはできなくて、残ったのはタイルの目地などに張り付くなどしている。
往々にして人目につかないところに植えられていることが多くて日の目を見ることは少ないし、先ほども言ったように小さくて地味な花だから、面と向かってもなかなか句を授かることはできないで苦しんでいたが、逆にその狭さからヒントを得たのが掲句である。

故人宅での葬儀は今では珍しくなった。かつて、庭先から焼香したあと、狭い軒下を通って玄関脇に順路が設けられているのに何回か遭遇したことがある。その順路に南天を配してみるとこんなこともあるかなというシーンだ。
たいていは、家と境界の距離というのは1メートルくらいなので、木や花に触れないで通り抜けるのは難しい。まして、雨ともなったら花より高く掲げたりしなければならない。だが雨の場面として、花と傘のふれあいを詠むのはあまりにも月並みすぎる。ここは、さりげなく腕に巻いた喪章に狂言回しを務めてもらうこととした。
作りすぎの感なきにしもあらずだが。

急ブレーキ

一尺の甕をたばしる目高かな

商家の軒先に昔ながらの金魚鉢があった。

鉢も水も透明でよく維持されているが、どうやら飼われているのは金魚ではなく目高のようである。
思わず駆け寄ったら、それが目高を驚かせたようで、かれらは一斉に迸ったものの、哀れなるかな身の隠しようもなく、鉢の中をせいぜい10センチ程度移動したに過ぎないのだが、ブレーキがよく効いて集団が瞬間に停止するのは見事なものだった。

闇の妖精

蛍の闇に背筋を走るもの

漆黒の闇というのはぞっとするものがある。

蛍というのは、街灯もないところにこそ舞うものなので、よく見ようと懐中電灯を消すとそれこそ闇なのである。まして、雨の時期だから月もなくて真っ暗闇になることは多い。
最初のうちは夢中で蛍をカメラに納めようと楽しんでいても、やがて周りを見る余裕ができると、あらためて恐ろしい場所にいるのだと思い知る。そうなると、もういてもたってもいられなくなって、蛍狩りはお仕舞いになるのだ。
本来、蛍は人里にちかいところに棲息するものだが、最近は里の近くは蛍が生きられない環境が多くなった。だから、人里離れた闇の中はまるで異界のようにも思えてくるのだ。

見分ける

閑散を知らぬ御寺の燕子花

古刹と言われる寺には燕子花が多い。

県内では唐招提寺、長岳寺、長谷寺などが代表だろうか。
すでに花菖蒲の季節に入ったので、燕子花も終盤期であるが、それでも注意して歩けば発見することはできよう。
アヤメとは模様などよく似ているので間違いやすいが、水の有無でおおかたは判断できる。水に足をつけていれば燕子花と覚えておけば大きくは外さない。
こんなことを言えるのも、何回も現物を見ているからである。最近になってようやく見分けられるようになった。

今日のメニューは

父の日の男料理の自画自賛

六月十日は時の記念日と教わった。

今と違って、時計は時間を管理する絶対のものであり、時と時計は一体となっているほど身近であったので、この日はラジオや新聞でも必ず取り上げられていたものだが、最近はすっかり影が薄くなってしまった。
いっぽうで、かつておなじく影が薄かった感のある父の日が最近では、復権したというか、祝日とまではいかないにしてもようやく社会的な地位を与えられたようである。
ただ、わが家ではまだまだ日の目をみることはないようで、とくにあらたまったことは、これまでもこれからも何もないだろう。

時の記念日をいまだにはっきり覚えているのは、この日が父の誕生日であったこととも無縁ではない。

序章

紫陽花や昏るる廊下のうす明かり
七変化うすみどりしてその序章

紫陽花が映える季節となった。

一昨日の長谷寺は、ようやく色づきはじめたという感じで、いまだ咲いたというレベルではなかったが、それはそれで句材としては十分なものがあったようでいくつか詠まれていた。
花の期間は長いのでいずれまた詠む機会はありそうだけど、まずは小手調べで。