春塵や千年仏の箔のなほ
菅原の里の喜光寺は養老年間に行基が創建したと伝わる寺である。
菅原天満宮にも近く、菅原一族の氏寺として作られたという説もあり、別名を「菅原寺」と呼ばれる。
ここの見どころは、「試みの大仏殿」といわれる重文の本堂で、東大寺建立に先だって建築された、いわばプロトタイプとしての役割があったともされている。今の本堂は、室町年間に焼失したが縮小されて再建されたとのことだが、それでも迫力は十分である。
特徴の一つとして、上部に連子窓が設けられ、堂内に光が溢れるようになっている。丈六の阿弥陀如来と脇侍の両菩薩の頭上には天女が舞い、さながら堂内全体が極楽浄土のように明るい。
これまた重文の阿弥陀如来は平安時代の作で、開扉されたまま公開されているが、千年経った今でも驚くくらい金箔が剝落せずに残っている部分もあって保存状態はいい。
法相宗ということからも分かるように、ここは現在薬師寺の別格本山ともなっており、最近では、菅原の里の喜光寺から、西の京・唐招提寺、薬師寺を結ぶコースをロータスロードと名づけ、蓮の寺として観光アピールしている。
百鉢を超える鉢があったが、今の時期芽吹きはまだのようであった。
なお、菅原というのは土師氏の一族であるが、その土師氏というのは、垂仁天皇のとき野見宿祢(天皇の前の相撲で当麻蹶速に勝ち、相撲の祖とされる)がそれまでの殉死を廃し、代わりに埴輪とするよう進言し容れられたことから賜った姓で、いまの菅原のあたりを本願地としていたようである。言われてみれば、菅原の里のすぐ南に垂仁天皇とされる御陵があり、両者の関係は相当密接なものがあったと思われる。