桜の切り紙

切り貼りのどれも低きに春障子

覚えておられる方も多いだろう。

桜の形をした切り貼りがある障子。少し破れたくらいなら花びら形にカットした紙で繕ったものだ。
今では障子用の紙だって簡単に手に入るし、糊もわざわざ手作りする必要もなく、張り替えもずいぶん簡単になったことだろう。
春ともなれば去年張り替えた紙もうっすら灼けてきたりするものだが、強くなった日がその分あまりある光を通してくれる。
切り貼りの部分もそれだけくっきりと分かる。
障子の低い部分だけつぎが当たってるところをみると、破ったのは猫かあるいは小さな子供の仕業か。

浪速の春

春場所や新弟子みやうみまねから

浪速の各宿舎には新弟子が入る頃。

四股、鉄砲はまだいいが、箒の持ち方、掃き方、挨拶の仕方やら、心得、所作、作法のあれこれには戸惑うことは多いはずだ。師匠や兄弟子などから直接教わることもあろうが、細かなことまですべて手取り足取りとはいかないだろう。
そこで、見るものすべてが手本となる。最初のうちは見よう見真似のぎこちない面は否めないが、一年もすればそれらしい貌になっているはずだ。

それにしても、今場所は新横綱誕生、陥落大関の返り咲き如何、小型力士の新入幕など、久しぶりに見どころ満載でおおいに盛り上がるだろう。

実の生る花木

桃の花津軽捨てしと言ふ人と

津軽の春が懐かしいのだろう。

道路からよく見える場所に、頭よりちょっと高いところに桃の花が咲く。
初夏にははっきりと実がついているのも見える。
この人は、僕と同様に実が生る花木が好きなのだと思う。

3月10日ころから、二十四節気の「啓蟄」の次候、「桃始笑(ももはじめてさく)」になる。そろそろ咲く姿が見られる頃だ。東日本大震災とはそういう時期にあったのだと改めて思う。

終われば春

松明の奥うかがへず御水取

いよいよお水取りの日が近づいた。

今月の一日から修二会の行は始まっており、あの大きなお松明は練行衆の道明かりとして毎夜上げられている。
フィナーレのお水取り当日、あるいは土日となれば、大勢の観客が押し寄せるので体力のない者にはとてもではないがお勧めできるものではない。前半の平日を狙っていけば、うまくいけば長い時間並ばずともお松明のシーンは見られる。雨や雪ならばなおチャンスは広がる。

それにしても、あんなに大きな炎を振り回して、あの木造の建物が1,200年もよくも無事にいられたものだと思う。

あるかなきかの

強東風の攫ふ拝観しをりかな

花か香か。

折しも、菅原の里では梅が満開で、菅原神社では盆梅展が開かれているが、とくとく思うに梅の魅力はやはりその香りにあるのだろう。兼好さんに反論する訳ではないが、やはり梅は桜と違う。桜に比べ花期は長く、その最後までよく見ることができるが、そのことがかえって花の魅力というものを損じているようにも思える。かわりに、香りには花の盛衰にかかわらないものがあって、目をつむってでも、長きに楽しめるのがいい。
屋外に置かれた鉢からはそこはかとなく香りが立ちのぼるし、それがまた適度な風があるとそれぞれに鼻を近づけては確かめてみる楽しみがあり、それがどの鉢のものとも分からないことも多いのが奥ゆかしくていい。一方室内はと言うと、一歩足を入れてみるだけでそれぞれの香を凝縮した濃密な空気に全身が包まれてきて、これはこれで豪華な雰囲気を醸成していた。
個人的には、あるかなきかの香を楽しむ屋外のほうが好ましいと感じたが、さりながらこの日は大宰府にもとどけとばかり風に勢いがあるので、ゆっくり香りを堪能するどころか、首をすくめるほどの寒さには閉口した。
喜光寺の弁天池に浮遊するものが、あっちにもこっちにも振り回され漂流しているのが印象的な日であった。

蓮の寺

春塵や千年仏の箔のなほ

菅原の里の喜光寺は養老年間に行基が創建したと伝わる寺である。

菅原天満宮にも近く、菅原一族の氏寺として作られたという説もあり、別名を「菅原寺」と呼ばれる。
ここの見どころは、「試みの大仏殿」といわれる重文の本堂で、東大寺建立に先だって建築された、いわばプロトタイプとしての役割があったともされている。今の本堂は、室町年間に焼失したが縮小されて再建されたとのことだが、それでも迫力は十分である。
特徴の一つとして、上部に連子窓が設けられ、堂内に光が溢れるようになっている。丈六の阿弥陀如来と脇侍の両菩薩の頭上には天女が舞い、さながら堂内全体が極楽浄土のように明るい。
これまた重文の阿弥陀如来は平安時代の作で、開扉されたまま公開されているが、千年経った今でも驚くくらい金箔が剝落せずに残っている部分もあって保存状態はいい。

法相宗ということからも分かるように、ここは現在薬師寺の別格本山ともなっており、最近では、菅原の里の喜光寺から、西の京・唐招提寺、薬師寺を結ぶコースをロータスロードと名づけ、蓮の寺として観光アピールしている。
百鉢を超える鉢があったが、今の時期芽吹きはまだのようであった。

なお、菅原というのは土師氏の一族であるが、その土師氏というのは、垂仁天皇のとき野見宿祢(天皇の前の相撲で当麻蹶速に勝ち、相撲の祖とされる)がそれまでの殉死を廃し、代わりに埴輪とするよう進言し容れられたことから賜った姓で、いまの菅原のあたりを本願地としていたようである。言われてみれば、菅原の里のすぐ南に垂仁天皇とされる御陵があり、両者の関係は相当密接なものがあったと思われる。

菅原の里

白梅の散るをいそがぬ古色かな
盆梅のいずれの鉢の香なるらん
屹然と野梅の盆の孤高かな
天神に落ちずてふ梅ありにけり

まほろば句会は冬に戻ったような天気。

途中、霙交じりの春時雨にあったり、風は料峭とも言える強い西風。
管公出身と伝わる里の吟行である。菅原神社の盆梅展が目当てだが、隣接する喜光寺の丈六仏にもご挨拶。
菅原神社の玉垣には「落ちない梅」という案内があり、実が落ちないという意味らしいが、なにやら受験生にご利益がありそうである。受験シーズンも終盤とあって、すずなりの絵馬の願意は合格祈念だが、合格御礼の札はこれから徐々に増えていくのだろう。